歳月 #2

自分に返信をするような形で書く。

今月途中から、大丈夫になったよ。

気づいたのは、業務中かな。仕事で怒られたり、不快な言葉を使われたりしていて、その時にふといつもの自分ならしない反応をしていると俯瞰的に気がついた。とても変な感じだった。強いて言うなら、居心地の悪い自分?  いつもなら、そこで自己肯定感が驚くほど下がったり、悲しくてつらくて惨めで仕方がない、と思ってた。自分が本当に無価値だと思えた。でも、「あれ?」となった。言葉は強いしキツいはキツいで正しいんだけど、心の背筋はシャンとしている。

その時はそこまで分からなかった。「仕事が全然できてねえ。」と叱られながら、頭のどこかがぼんやりと「あれ?どうした?」くらいだったな。


2週間くらいが経って、腑に落ちる気がした。

なぜか、昨日から唐突に過去のことが目の前に降ってきて、本を読みながら、家族や人と人の話を読みながら、ボロボロ泣いてた。そういう時は、泣くようにしている。しょうがないから。特に、生活の中で何か引き金になるような目立った出来事もなかったから、「どうしてだろう?」って涙が止まらない時に思ってた。なんでだろう。なんで、私は泣いているんだろう。
ふと、俯瞰の視点で、私は『家族のこと』とか『私の生い立ち』とかの名前のついた箱の前に泣いていると思った。
このままズラせそうだな、と心のどこかがそう思った。見えない遠くに、私の中の起きたい場所に。遠くに、もうずっと遠くの見えない場所に、でもいい。  箱になっていた。最近の違和感はこれか、と思った。

私が怖かったシチュエーション、人物(もはやそういう、像)、場所に私がいつも通りではない気持ちを抱き、反応をしていた。身を削るような辛さは無かった。もちろん、仕事が出来ない、ということは普通に辛いが。笑

昔は箱にも収まっていなかった、散らかったつらい感情とか自分の感情に見切りというか、整理がついたらしい。それでも、怖いものは怖いと、同じシチュエーションになればそれは新しく私の心が「怖い。」と覚えることは前のnoteを見れば分かったが。少なくとも。少なくとも、前のつらさは無い。嵐は、去ったらしい。

今の私には、新しいものがあってもいいかもしれない。


私の中間地点になってくれた人。つらい悲しい場所から怖すぎて立つことも身動ぎすることもできなかった私を助けようと小さな声を聞き、急かしもせず、ただ見守り、ある人は引っ張り連れ出してくれた人達、場所。
ちょっと強くなった気がする。
「怖かった。」とこの場所を自らの足で立ち去るのは、自分でもびっくりする。成長してて。本当に成長していて。

"後悔はしないか。もう怖くはないのか。"
一応、何度もこの数日間自分に問いかけてる。何度心に訊ねても、「大丈夫。それがいい。」と言う。とても逞しくなったもんだ。

昔私の書いた『歳月』という記事を読むまで、忘れていた。怖いというのを書いていたこと。その時の私の状況、願い。

改めて確信したので呟くと、
「すげえ自分が思ってるより、一歩ずつ進んでるし歩いてると思うよ。すごいと思う。」


前の記事の最後に書いてあった問い、めっちゃ真剣に向き合ったなぁ。

目下の緊急課題は、「忘れて、わたしは今やってることを続けているのだろうか。」ということ。

この怖さを乗り越えないと、見たいものが見えない気がする。なんだか、いつも怖いって言いながら、大事なものを見落とし続けたままなような気がする。

『歳月』より

怖さが私の中から無くならない限り、気にならなくなるまでは、影響を受け、私は心から私の選択をしているとは言えないのではないか。私の感覚は正しかったと今でも思う。というか、よくやったくらいに、『生きる』においての美的感覚を褒めたい。

過去の私にどうなったのか答えておくと、問いの完了の前に、新しいこと始めたよ。そして、私の回答は、「続けているかは分からないけど、私がしたいことをする。それが答えになる。」だった。したかったら、コーチをしているかもしれない。したかったら、今の仕事を続けるかもしれない。
答えを出せる私であること、私の身体に反応できる自分であるのが本当に嬉しい。

過去の問いは、今は新しい問いになりました。

「私が本当にしたいことって何だろう?私が心からしてて楽しいことは何?」

さて、次の私は、これにどう答える?楽しみだね。

改めて、私を助けてくれた人達、本当にありがとうございました。このご恩は忘れません。
していただいたことを誰かの明日にまた返せるように、繋ぎます。また、私が何か一つでも世界にお返しできるように、自分にできることを考え、したいことをしながらもっと学び力をつけます。
これからもよろしくお願いいたします。

励みになります☺️