誕生日は、存在を祝う日
最近、友人の誕生日がありました。とても大切な日で、私にとっても祝われたような日でした。
私の話をします。
2021年、あんまり覚えていない。何したんだっけな。
「これまでやってきたことは間違いじゃなかったんだな。」
彼が言っていた言葉を思い出す。
誕生日の日に言っていた言葉です。私にも、刺さっていたようで。その時はよく分からなかったけど、今は刺さっていたと思います。
それだなぁ。
大学5年間の集大成を、ここで見たと思う。
ふと振り返ってみたら、私の死んだとき、お葬式のとき誰が来てくれるんだろうと思っていたけれど、誰も来ないだろうと思っていたけれど、
彼らは、(その場にいた人は(笑)、)来るんだよなぁ。(苦笑)
「やったなぁ。」と思いました。やらかした、みたいな。
『意味、存在意味を作ってしまった、自分に。』と思いました。
私は、彼らがいないといけない。そして私自身も。
私はこの感じた想いを遺していきたいのならば、生きていかないといけない。存在していなければいけない。
愛した結果か。
この幸せは、愛する人たちが必要で、私の愛が必要で。そして、この人たちがくれるものが。
きっと執着しているんではなくて、彼ら自身の存在が必要なんだと思います。
お互いに欲しいものを奪い合うことなく享受して手元にある。愛だなぁ、賜物だなぁと思う。
心から贈り合える友だち。
それぞれを知っている、自分自身を。違うとも思える人たちを必要としている。
『二であるために一を知る。』
そんなことをこの友だちが言っていたと思います。友人最強か?(笑)
(すげぇわほんと。自分のこと知ってるの。)
もっと大きなもの、大切なものを贈り合える気がする。私たちは。
かけがえのないもの、生まれた意味...。それぞれのものをありったけに。
この大切な人生に。
存在を贈り合える。
そんな友だちでありたい。
私は自分に、そんな存在であってほしいと思う。新月の願いにもそんなことをかけたい。
誕生日とは、きっと存在を贈り合う日のことである。
お互いの生まれたすべてを、贈り合う。
自分の存在を贈り合う。それがどれだけ尊いことなのか。
余談
誰もはじまりを知れない、自分自身の。
だから、今を語れる。
今がどれだけ豊かなのか、あなたは何をもらったのか。
今見つけたものが存在で、"私"。
与えたもので生きている。
与えた私と、与えて返ってきたもので私。
合計して与え合えた分が私であると言える。
私たちは与え合ったものでしか自身を規定できない。
誕生日って、与えられた私を承認する会だから変われるんだよなぁ。
結構、この一年で母性を伸ばしたのではないでしょうか?最初の私への問い、終わった。
マーージで長生きしてやるぞ。みんなハッピーにしてやるぞ!
誕生日、おめでとう!
励みになります☺️