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社会人④

さて、ここからはかなり最近の話になる。

noteに綴り始めたのはだいぶ整理ができてからだから言語化できているように見えるけれど、それまではアウトプットということを殆どせず、ずっと頭の中(あるいはiPhoneのメモ帳上)でぐるぐるぐるぐる考えていた。

過食を封印できた日々が続いても、「いつかまた落ちてしまう」という怖さから逃れることができない。精神論的に言ってしまえば自分のことを信じきれず、プレッシャーに耐えられずぷつんと糸が切れてしまう。

数ヶ月ぶりにスーパーで買ったチルドスイーツやら何やらを胃に詰め込んだ夜のこと。どれだけ時を経ても、過食封印の記録が続いても、結局は変われない自分が心底嫌になって、どうしても吐きたくなった。歯ブラシ片手にトイレで格闘すること1時間弱。結局吐くことはできなかった。出てくるのは無色透明の唾液と人間のものとは思えない声だけで、喉が痛くなるばかりだった。

「(一度吐いたらやめられなくなるから)吐けなくてよかった」という気持ちと「ほんとに中途半端だな、わたし」という気持ちが半々。そう、「中途半端」なのだ。「摂食障害」と診断されるには見た目や数字の変化が足りず、嘔吐や代償行為といった「実績」も足りない。他人にはけっして理解してもらえないと思うけれど、わたしの食へのコンプレックスはいつからか、「摂食障害者になりきれない」という歪んだコンプレックスを含むようになっていた。これもまた正常な感情ではないかもしれないが、わたしよりもずっと苦しい思いをしている人には申し訳ない気がする。

頭の中で考えるとか自分しか見ないメモ帳に殴り書きしては捨てるとか、閉じたアウトプットじゃなくて、自分の外に何かを出さないともうダメかも、と思った。(皮肉に聞こえるかもしれないけど、嘔吐のメタファーです。でも本当に、嘔吐でもいいから外に出さないと、と思ったんです。)

摂食の問題について、学生時代に開示していた友人のことが頭に浮かんだ。ずっと心のどこかで彼女と話したいという気持ちがあったのだと思う。連絡をとるのは数年ぶりだったけれど、LINEを送るとすぐに返事が返ってきた。内容にはふれず「相談したいことがある」と言っただけなのに。彼女がそういう人なのはわかっていたけれど、それだけですごく嬉しかったし安心した。

電話で話すことになり、わたしは近況報告もそこそこに声を震わせながら過食のこと、要因だと思っていること、よくなりたいと思っていることについて話した。彼女は、今では全快していること、振り返ってみるときっかけみたいなのがあって少しずつよくなっていったこと、できそうなことや考え方について話してくれた。質問もしてくれた。わたしの中にしかない言葉を引き出してくれたことが有り難かった。誰にも言えなかったことを、ようやく吐き出すことができた。

そして「病名があろうがなかろうが、今困っていることをなおしたい」というのが完全に正当なことであると、改めて気がつかせてくれた。これは言葉にしてみると当たり前に聞こえるけれども、自分にあてはめようとすると非常に難しい。自分以外の人に言ってもらって初めて、信じることのできる言葉だった。


現在へ続く

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