まどろみ1
靄がかかって霞んでしまっている記憶は、どこか儚くも鮮明で、目を瞑れば昨日のことのようにはっきりと思い出すことができる。いつかの日の、微睡のような。
近所のおばちゃんが世間話をする声。新聞配達のバイクが駆け抜けていく音。西洋風の縦長の窓から差し込む青空には、雲一つ浮かんでいなかった。眠い目をうっすら開けると、まだ静かに寝息を立てる彼が隣にいた。昨日は楽しかったなと、昨晩の出来事に思いを耽る。
彼の口から出る話題は、どれも私の興味を釘付けにするものばかりだった。留学に行った話、その国でのエピソード、最近勉強していること、転職を考えていること、ヴィーガンについて、ブロッコリーのすごいところ、とかなんとか。とにかく話題が尽きることはないし、他人には理解できないかもしれないが、私にとってはなによりも面白くて、心惹かれるものだった。
やっと目覚めた彼は、おはようと言いながら大きく伸びをして電気ポットでお湯を沸かす。落ち着いた真面目そうな横顔に似合わないタバコを咥えて、おいでと目線で合図する。ベッドの上で、昨晩彼から借りた本に夢中で齧り付いていた私だったが、彼からの視線に気がつくと飛びつくように彼の元に向かった。
「その本面白い?」
「いや、面白いかはよくわからないけど。タメにはなるのかなって。」
「読み終わったら教えてね。」
何気ない会話をしていると、電気ポットがカチッと音を鳴らして、お湯が沸いたことを知らせる。蒸していたタバコの先を灰皿代わりの空き缶の淵で潰して、1つのマグカップに並々とお茶を淹れると、溢れそうな水面にハラハラして笑ってしまった。
最近はリモートワーク続きらしい。時間になると、少しばかりの電話会議を行なって、終わったかと思うとパソコンとの睨めっこの時間が始まった。私はその間、彼に借りた本に夢中になっていた。
『死とは何か』
変なタイトル、見たこともない分厚さの本に興味を惹かれ、昨晩貸してくれと頼むと、彼自身読み終えておらず手付かずの状態だと教えてくれた。パソコンのタイピングの音と、本のページをめくる音。大きな一つのマグカップは2人の間を行き来して、冷め切る前に空っぽになった。2時間ほど経っただろうか。彼は突然クルリとこちらを振り返って、私のお腹に顔を埋める。背中に回された腕にぎゅっと力が入って、声にもならない声で唸ったかと思うと、よしっと言って伸びをし、またパソコンに向き直った。可愛らしいところもあるものだ。私は彼の背中を見て、終始口角を上げていたことを彼は知らない。
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