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東京未完成日記

朝起きて、ホームレスの人に会いに行く。グレーのTシャツ、シンプルなジーンズ。昼は駅のトイレでメイクをしたあと上野で友人の作った映画を見て、六本木のメイドカフェに行って、使用済み下着を売る店の店主とお話をしに行く。今度は駅のトイレで青のワンピースに着替えて、夜はビルの48階で、社長さんに焼き肉をおごってもらう。次の日の昼は、共に海外大進学をするハーバードやスタンフォードの友達と遊ぶ。夕方はインドのスラムの子どもたちとビデオチャット。

老若男女を問わず一発で覚えられる名前は、自分を構成する要素の中で一番気に入っているものだ。「りんちゃん」「りん」「りんりん」「りんこりんー!」「りんちゃん先生」見た目も中身も場所によって全く異なるわたしでも、名前だけはどこにいっても変わらない。「私の変化が意識的であり続ける限り私の主導権は私にあるわ」と強がっていても、意外とそれに安心させられているらしい。

東京に来てからというもの、ずっとこんな日々を送っている。「明日エヴァンゲリオン劇場版見にいかん?」はじまりは、卒業式直後に送られてきた一通のLINEだった。序・破・Qどれも見たことがなかったし、なによりその連絡が来たのはもう夜遅くである。今から前作全てを見返すには遅すぎたし、見返さずに最新作だけを見てもチケット代1000円をを価値あるものにできる気がしない。その旨を告げると、友達は言った。「じゃあ今からみるかぁ!!」そうして生まれて初めて徹夜をして、フラフラの頭でシーサイドライナーに乗って、エヴァンゲリオンを見た。ほとんど何も分からなかった。そのときの不思議な高揚感に味をしめて、「無駄なことをする」「目的の無いことをする」4か月にすることにした。

そういえば友人がジョイマンにドハマりしたことで、一緒に韻を探してはケラケラ笑う生活をしていたような気がする() 生まれてからの18年間、世界平和のみに関心を寄せ、綿密な計画を立て、それをすべて実行することで社会に貢献しようとする、という力強く「勇ましい物語」の中で生きてきたが故、それをこれからも続けるのか、この生き方しか出来ないまま死んでしまうのかという一抹の恐怖を抱き始めていたのかもしれない。悲しみ、悔しさ、怒り。そんな感情を自分事として持ち続けることだけを意識し続けていたけれど、それだけではいつか限界が来ると悟ったのかもしれない。何よりも、自分がこのように「頑張ることができる」という社会の優秀さに非常に適合した性質を身につけたからこそ、頑張れない人のことを「意味が分からない」と切り捨てるようになりそうで怖かったのかもしれない。

「意味のわからないことを楽しんでみな。お花を生ける教室に行って、高級住宅街のマダムと友達になってみたりさ。」今にも崩れ落ちそうな居酒屋で尊敬する先輩にもらったその言葉に妙に納得して、手当たり次第に自分が行かなさそうなところを巡り歩いてみた。そこでそれ自体を心から楽しんでみようと思ったけれど、人生はやっぱり思うようにはいかない。「自分とは全く違う動機で動く人々の生活に入り込んでみる!」これが私の、生まれて初めて心から感じた「楽しさ」となった。

大学もオンラインだし寮は隣人の顔も知らないしで、「居場所」「家」「いつも一緒にいる人」はない。ぜったいに交わらない人々の生活を知りたい、ただその好奇心(これも初めて抱いた感情だった)だけに突き動かされて、様々なコミュニティに「新参者」としてお邪魔しては「大丈夫、私もここの住人ですから、安心して心を開いてください」というアピールをする。趣味、バックグラウンド、大学、学んでいること。それが特定の階層のハビトゥスに偏っていないのは私の大きな強みだと気づいてからは、それをさらに加速させた。コロナ禍で人混みに行けなかった分、一対一で初めて会う人の日常を聞くのも楽しかった。まさに社会学者の参与観察である。

12時の門限ギリギリを狙って、11時42分に近くのコンビニまでダッシュしてスイカバーを買いに行く。夏の夜の生ぬるい風が、私は今ささやかな「生活」の中にいるのだということを思い出させてくれる。黒猫がいつもの駐車場で目を光らせている。住まいの付近には東京最大級の商店街があって、お惣菜を定価の半分以下の値段にしてどうにか売り切ろうとしている中華料理屋さんの声を聞きながら、誰もいない広い道をゆっくりと歩く。たまに通る酔いつぶれた男女グループを横目に、だんだん遠くなるその声を、ただ聞いている。深夜の電車に乗るのも好き。皆のエネルギーが下に落ちて静物となっているのに、互いを求めあうカップルからだけは動物の気を感じる。もっと好きなのは、クレジットカードの暗証番号入力時の店員さんの反応を見ること。後ろを向く人、さりげなく目をそらす人、ガン見する人、おおげさなくらい手で覆い隠す人。いろんな人がいる。

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人にやさしくあること

もちろん、失望することも多々あった。草の根の支援をされている方にお会いした直後に、お金を湯水のように使う人々を見ると悲惨なほどの富の偏りに頭がぐらぐらした。また、真剣な支援をしているという広告を掲げている人たちが実はそうではないということを知ると、「なんだ、君はまだ性善説なんか信じているのか!」と嗤われたような気もした。家事をしなければならない。恋愛をしなければならない。結婚しなければならない。性欲を抑えなければならない。勉強をしなければならない。そんな欲望が見事に押さえつけられた田舎での日常とは反対に、都会では人々が皆お互いの欲望があるということを認識したうえで、そんな行動のインセンティブを刺激しようかと働きかけている。自分はそのような欲望が無い味気ない人間なんじゃないかと思ったことも、1度や2度ではない。表面をかすりとり、人を「騙す」ことで成り立っていく世界。こんな世界で「真剣に」生きていっても、ただ精神が擦り減っていくだけではないか。

そんな思いが頭を掠めたときも、やはり私の尊敬する人々の存在は大きかった。あなたがいるというだけで、この地球上に生きてみようと思わせてくれる人々。そんな人々がその誠実さを社会に広げている様子を見るたびに、「誠実なままで生きていいんだ」「優しいままでも生きていけるんだ」と思う人たちを増やしているのを見るたびに、私もそうなりたいと思った。

また、参与観察を続けるうちに、人々は特定の狭い狭い価値観の中で笑い、泣き、苦しみ、ダサいダサくないの判断をしているのだと目の当たりにしたことも私にとっては転換的な出来事であった。あるコミュニティではピアスなんてしたら村八分だが、その隣の建物のコミュニティでは舌にピアスをしないと仲間に入れてもらえない。こんなにわかりやすい価値観の違いが、世の中には溢れている。田舎にいるときよく「ここは息苦しい」なんて訴えていたが、結局都会にいる人たちも皆本質的には同じではある。ただ価値観の基準のベクトルが「海外大に行く人は凄い」「批判することは大事だ」「行動力は大事だ」というように変わっただけで、彼らも狭いコミュニティの中の正解に悩み、苦しんでいる。私が都会で生きやすいのは、「都会の正しさ」が私の肌にあったから。また、複数の「正しさ」の中に属することが出来るから。それ以上でも、それ以下でもない。

そんなことに気づいてしまったからこそ、ある特定のコミュニティでしか効力を発揮しない価値基準、というのに信じられないほど無頓着になってしまった。秋から通う大学の友人たちとの、どんな授業をとればAは簡単だ、ノートの取り方はこうだ、といった話に集中しようとしても、気づいたら意識が飛んでいる。もし私がアフリカに行ったとしよう。そのとき、私の成績がAだろうがFだろうが、彼らはどうして知ることが出来よう。私がもしオールAを取ったとしても、刺青の無い私は非文明人だ。

たくさんの「ふつう」を知れば知るほど、世界中のどの場所にいても通じる価値観、①人にやさしくあること(優しいハグができるとなおよい)、②一生懸命に真っすぐ生きていくこと、の2つしか普遍的な価値観はないのだと確信する。この2つだけを行動の指針にすれば、どれだけの気にしいさんでも、矛盾する価値観を有する複数のコミュニティにいても、胸を張って生きていける。

こちら側に来られた者として

それでもやはり、こんな風に達観して考えられるようになったのも「こちら側」に来れたからなのだという意識は常に付きまとった。割れ切った世界の片隅、というのは、当時感じていた「話を聞いてもらえない」孤独感から生まれたものだった。とすれば、そこを抜け出したということは、「話を聞いてもらえる」側に来れたということだ。

様々な「話を聞いてもらえない」コミュニティにいても、私はすぐにそこを抜けて話を聞いてくれる友達のもとへ駆け込むことができる。結局どれだけそのコミュニティに出入りしようとも、部外者以外の何物でもない。社会に不満があれば、専門家にすぐに話を聞くことも出来る。一抹の使命感もありつつも、そんな心の余裕は私を学問へと誘ってくれた。今までは「話を聞いてもらえない人がいる!」と叫ぶのに一生懸命で、学びなんていう長期のスパンでしか人を救えない何かに手を伸ばそうなんて思わなかった。しかしながら、自分自身が苦しまなくてもいいという特権、話を聞いてくれる人がいるという特権を得たことで、すぐに行動に移さず「なぜこの世界はここまで割れているのだろう?」という疑問を丁寧に掘り下げようと思えるようになった。

演劇も映画も見た。音楽も沢山聞いた。展示も見に行った。ぜんぶぜんぶ、初めてだった。それぞれに予想外の学びがあり、広がっていく考え方と可能性の虜になった。

人口が多いからこそ、人々は自分と話が通じる人を容易に見つけ、彼らとだけ話していられる。「この割れ切った世界の片隅で」で書き殴った直感は本当にその通りだった。ただ、それと同時に、話が通じる人と話しているときが、何だかんだで自分も一番幸せであることにも気づいた。水族館の水槽に向かって「君たち魚にも、一緒に生きられる奴と生きられない奴がいるんだもんなぁ」と話しかけている人がいたらそれは私である。

悩み切って出した結論としては、「人はだれか一人でも、『話が通じる』人が隣にいたほうが幸福になれる」ということ。地方在住の中高生と話すと「ここに合わないからって新しい場所で生きるのは逃げですか?」とよく質問されるが、それは決して逃げではないと断固として言いたい。

それと同時に、「話が通じない」実感がある人とも、なるべく多く一緒にいたほうがいいということ。自分が持っているものと持っていないものを自覚するためにも、一緒にいて若干の負荷がかかる人とも話したほうが良い。だけれどもそれは本当にストレスがかかることで、「問題意識を持つために自分にストレスをかけよう」なんて思う聖人は少ないだろう。だからこそ、「なるべくストレスの少ない形で、価値観の異なる人々が互いの話を聞ける方法」を模索していきたいと思う。今のところはそれは人々の表現力、対話力を上げれば実現できるのではないかと思っている。これに関してはまた別の記事で......

勇ましい物語、意気地のない物語

よかった、これをちゃんと書き終えられて~! 明日から私はアメリカの大学に通う。「みんな、友達をつくろう!」「授業に積極的に参加しよう!」「教授に質問に行こう!」「多様性を抱擁しよう!」オリエンテーションを受けているだけで、ここでは先述のような「勇ましい物語」の中で生きていくことが求められるのだろうという確信が強まっていく。さすがヒーローの国である。

私が4か月で感じた東京の良いところ。それは人間のどうしようもなさを抱擁してくれるところだ。「意気地のない物語」といってもいいだろう。マァ頑張れない奴だっているよね。友達作れない奴だっているよね。結婚したくない奴だっているよね。そんな非生産的さ、人間らしさ、格好良く言うならば新しい人権のようなものが、人々の主張ではなく人間の意気地の無さの容認から許容されていっている東京を、私は愛している。勇ましさの中に吸い込まれそうになる時は、この「ねじ式」なんかをときおり見返そうと思う。わたしの大好きな東京。この街が永遠に人間の本質的な意気地の無さを抱きしめてあげられますように。これから「多様性」「権利」といった圧倒的な正しさに直面していくだろうけれど、被害者の怒りと叫びだけでなく、人々の緩やかな意識変革と優しさによって、人の痛みに敏感な社会を作れますように。そのためにも、「分断を少しでも緩和したい」という少しの勇ましい志をもって、生きていこうと思う。

おまけ:「線香花火いっぱい買ってください」というメッセージとともにサポートをしてくださった皆様、本当にありがとうございました。お陰様で、この夏はいっぱい1人で花火しました🎇

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