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「午前中、空いてる時あったら電話ちょうだいね」
午後からパートに出る母からのLINE。
夜勤明けにでもかけようかと思ったけれど、眠くて結局翌日の朝1番に「おはよう」と返した。

「もしもーし、どうね、元気で?」
母の聞き慣れた声と方言で、私もすぐに長崎弁に戻る。
「ねえ聞いてよ、仕事でさ〜、」
と、話し始めるのは私の近況から。話し相手が居ない一人暮らし、おしゃべりな私にとって母との電話は、私の溜まりに溜まったおしゃべり欲を解消してくれるいい時間だ。

「やばかよね〜、てかそっちはどうなん?」
ひとしきり話し終えると、次は母のターン。
「もう、いよいよって感じ。月曜に決まるみたい。」
母の声は少し暗かった。
前々から話は聞いていたが、いよいよらしい。


父と母は同じ地元で、小さな島出身である。
父は長男、去年定年を迎え現在出向中で、次の勤務先を探しているのだ。まあ次の、というのはすなわち島での仕事を探しているわけで、いよいよ、というのは2人して島へ帰るということ。

父は転勤族だった。
私は20年長崎にいたが、3回引っ越した。生まれと育ちは場所が違う。でも、幼稚園の途中からはずっと同じ所で、父だけが単身赴任や通勤に時間をかけて同じ所に住まわせてくれた。まあ私の為、というより5歳上の兄のため。小学校だけで2回も転校している兄が今の実家へ来た時、兄は既に小4で、転勤は大体3年ごと。小・中と部活もしていたし、思春期の転校ほど負担なものは無いと、父の転勤のタイミングで社宅を出て、同じ市のごく一般的なピンクの賃貸マンションに住むようになった。


私にとって、"ピンクのマンション"が実家だった。
マンション、と名乗るのが申し訳ないほどアパートチックなチープなピンク色で、決して広くもない。どちらかと言えば狭いはずなのに、よく人が集まる家だった。
私の母は、私が家に友達を招くのを断ったことがない。高校生になった頃くらいに気になって聞いたことがある。すると母は「人が集まる家はいい家ってことよ」と笑いながらそういった。
急遽決まったお泊まりも、狭い部屋に布団をひとつ運んで了承してくれ、友達の朝ごはんまで出す。母の手料理は友達にも人気で、友達がわざわざストーリーに出すくらいだった。


そんな実家ももうじきなくなるかもしれない。

これから私はどこに帰ったらいいんだろう、ふと思う。私の帰省は、島に帰ることじゃくて、ピンクのマンションに帰ることなのに。


うるさい車の音、花だらけのカラーボックス、雨宿りにベランダに来る鳥、ほとんど物置なダイニングテーブル、何故か3階まで登ってきた蛇、西日の強い私の部屋。

全部、ぜんぶ、私の実家。

散らかしすぎたあの部屋にも会えないと思うと、こんな私でも悲しくなる。
いつまでも、私の帰る場所はここだと思っていたから尚更。


でも、
賃貸だから、いつかは出ないといけなかったんだ。
長男だから、いつかは帰らないといけなかったんだ。
それが早まっただけ、ただそれだけ。





私の将来の夢は、小さくてもいいから一軒家に住んで、家族と楽しく暮らすことです。
それは帰る場所をいつまでも残しておきたいから。

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