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『月夜』

深夜2時。外は音ひとつない。時計の秒針が規則正しいリズムを響かせている。彼はデスクに向かっている。目の前の印刷された大量の文字。彼はその紙の束を丁寧に読み直す。何度もなんども。物語。整合は取れているか。人物は生きているか。風景は想像させるか。視覚的に文字列がどんな効果をもたらしているか。聴覚的に朗読に耐えうる性質を持っているか。誤字脱字はもってのほか。何ひとつ間違いがあってはならない。深夜2時32分。窓から入ってきた風が彼の頬をかすめる。彼は気づく。窓が開いていることを。月の綺麗な夜だ。どれくらいデスクに向かっているのだろう。喉が渇いている。腹も空いている。今日は昼間食事をしただけだ。食事?何を食べたっけ?サンドウィッチ。それは昨日だ。一昨日だったか。サンドウィッチを食べた記憶はある。だが思い出せない。おにぎり。食べていない。この間読んだ小説には「おむすび」という書き方をしていたっけ。たしかおむすびの具はおかか……昆布だったか。そうだ、おれはたしかにおにぎりと玉子焼きを食べた。でもいつだったか。それは昨日か?おにぎりとサンドウィッチ。どっちを食べたか……そんなことはどうでもいい。仕事だ。作品を完成させなくてはならない。その前に水が飲みたい。おれは喉が渇いている。水が喉を流れる。生ぬるい。コップはいつからデスクに置いてあったんだっけ。透明なガラスのコップ。三分の一に減っている水。ガラスのコップにはどれくらいの水が入っていたっけ。水。まだあったかな。そろそろ買い足しておかなければ。窓からの風が彼の前髪をゆらす。ざざっと布の擦れる音がする。背中に感じる。氷のような冷たさ。ペンを持つ右手に白い蛇。波状に動きながら肩から手首へ。手首から指先へ。細く白い蛇。月に照らされる。女の腕。血の気のない腕。表情を無くした指。彼の手に重なる。彼の肩越しから垂れる長い髪。海から打ち上げられた濡れた海藻のような。女の左手。彼の脇腹を這う。少しずつ。首筋に女の息を感じる。冷たい。真冬の空の下から今帰ってきたばかりの人間のような。背中に感じる胸の膨らみ。ふたつの膨らみ。それは今にも丸呑みしようとしている蛇のような。それは今にも丸呑みされようとしている獲物のような。捕えるものと捕らえられるもの。重なり合う。彼は感じる。自分の体温を。彼は感じる。自分の鼓動を。時刻は深夜2時47分。月の綺麗な夜である。

これは作品を創るための細かいパーツです。
たくさんのパーツを集めて、完成したら朗読したいと思っています。

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