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コンプのはなし


【コンプレックス(独:Komplex 英:complex)】 心理学・精神医学用語で、衝動・欲求・観念・記憶等の様々な心理的構成要素が無意識に複雑に絡み合って形成された観念の複合体をいう。ふだんは意識下に抑圧されているものの、現実の行動に影響力をもつ。
(Wikipediaより)


人はだれしもコンプレックスを持つ。

人それぞれの、多様な種類の。

わたしも例外ではない。

むしろ多いのではないだろうか。

なぜなら、
基本的に自己肯定感が死んでいるからである。

そんな人間の持つコンプレックスなど、
枚挙にいとまがない。

今回は、そのうちのひとつのはなし。



先日、ある人から

「あおいって、実はめちゃめちゃ頭良いよね」

と、言われた。

この言葉、人によっては、
貶されているように感じるかもしれない。

しかし、わたしはとても嬉しかった。

なぜか。

わたしは、自分がインテリに見られることを
激しく嫌うからである。

この人間性は、幼少期の経験によって培われた。



地頭がいいおかげで、昔から

「頭が良いね」「賢いね」

と褒められた。

真面目な性格も相まって、この『賢さ』は、
成績だけでなく、行動や見た目、
付き合う人間の種類にも反映された。


『賢い』という言葉はポジティブな言葉である。

しかし、
『賢い』と言われ続けてきた人間にとっては
ネガティブな言葉でしかない。

『賢い』ということは
他より優れているということである。

他より優れているということは
一目置かれるということである。

陽キャならば、それをカバーできるほどの人付き合いに対する高いポテンシャルを持ち合わせているのだろう。だが、わたしは根っからの陰キャであり、ジメジメとした日陰で陽キャに見つからないよう必死に隠れて生きてきた。おまけにとんでもなく人見知りである。人付き合いなど得意な訳がない。

そんな人間が一目置かれてしまったらどうなるか。


まず陽キャに存在がばれる。
そして頭が良い子として認知される。
まあ、それ以上でもそれ以下でもない認識なのだが。

陰でひっそり生きていたい人間としては、
認知されただけでかなりのHPを削られる。
相互的な認知などいらん。
認知するのはわたしだけでいい。


つぎに先生たちに頭が良い子として認知される。

これは本当に厄介である。
高評価を得る、信頼を得ることができるのは
ありがたい限りだが、
わたしの持つポテンシャル以上の期待をされる。

中学生の頃、先生に勧められて班長をしたことがある。
だがその頃のわたしは絶望的に人付き合いが苦手で、
陽キャ軍団を前にしてなす術もなく、
休み時間のたびに
「しにたい」
と呟くことしか出来なかった。
世に言う暗黒時代である。


これら以外にも、一目置かれることで
友達が出来にくかったような気がする。
(それはおまえが人見知りやからとちゃうんか)
ただでさえ孤独を感じていたのに、
尚更孤独を感じて生きざるを得ず、つらかった。


『賢さ』は、知識面でも差異を生み出す。

わたしの当たり前と、相手の当たり前が違うのだ。

するとどうなるだろうか。
そう、話が通じないという事態が生じるのである。

あまりに衝撃的で、未だに覚えていることがある。

当時、小学生だっただろうか。
どういう話の流れだったかまでは覚えていないが、
わたしが「久石譲」というワードを出した。
すると、相手の子がこう言った。

「誰それ。知らない。」

……うそだろ……………
ジブリの音楽をあんなにつくっているのに………………

このとき、わたしは、
「自分の家族の間では当たり前のことが、
 同い年の子との間では当たり前ではないのだ」
ということを思い知らされた。

まあ小学生でそういうことを知ってる人間のほうが
レアなのはものすごくわかる。
だが当時これは我が家では当たり前だったのだ。

このとき味わった衝撃、
「知らない」と言われることの恐怖。
これがわたしの『賢さ』に対する嫌悪を
さらに駆り立てた。


これらのことが複合して、わたしは
「賢そうに見えないように生きること」
「知識のレベルを相手に合わせること」
に躍起になった。

高校までは、
真面目な親のもとで、真面目な学校に通い、
真面目に生きていたので、
おそらく前者は出来ていなかった。それは認める。

だが後者は本当に意識的にやっていた。
言いたいことを言えないつらさもあった。
けれどもそれよりも、
他人からわたしが知識をひけらかしていると
思われるのではないか、という恐怖や、
話が合わないことに対する恐怖、
一目置かれることに対する恐怖が勝った。

このような意識のもと、
わたしは今日まで生きてきたのである。



そして話は、冒頭のあの言葉に戻る。

「あおいって、実はめちゃめちゃ頭良いよね」

ここまで『賢さ』に対するコンプレックスを
長々と書き連ねてきた人間にとって、
この言葉がどれほど嬉しかったか
お分かりいただけただろうか。

いかに他人とのレベルの差を生まないように、
あるように見せないように生きるか
ということに人生を懸けてきた。
その努力が認められたように感じたのである。
それ以外にも、
本当のわたしを見抜かれた嬉しさも
あったのかもしれない。
本当に嬉しい言葉をくれたなあ、あいつは……。


以上。

今回は、『賢さ』『真面目さ』に対する
コンプレックスのおはなしでした。

こうやって見てみると、わたしの人生は人間関係に苦しんできた人生なんだな……


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コンプレックスって、
言葉の意味通り、複合的な背景を持つものだから、
自分でもそう簡単には説明できないなって。
文章書きながらおもった。

まあそういう、
難しくてうまく言葉にできないものを
がんばって言語化して落とし込んだり、
どんなことがあってどう影響して…
ってことを考えたりするのが好きだし、
どんな言葉を使えばうまく伝わるか、
この感覚をできるだけダイレクトに表現できるか
考えることも好きだから。
たぶんまた気が向いたらこんなふうに
自分語りするとおもう。


徒然なるままに。




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