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1865年〜1869年生まれ 建築家 20名

1.亀岡末吉(1865年 - 1922年)

1865年 前橋藩士の子として生まれる
     明治維新後は画家を志す
     東京美術学校絵画科に入学する
     日本画の技術を習得
1894年 同校を卒業
1901年 内務省の古社寺調査に携わる
     寺社の修理に従事
1907年 京都府技師となる
     平等院鳳凰堂の修理を行う
     東福寺の方丈や東本願寺、
     仁和寺の門など焼失した建物を再建
1913年 京都府左京区神楽岡に自邸を建築
     現在は世界救世教黎明教会となっている
1918年 歿

2.滋賀重列(1866年 - 1936年)

1884年 東京府中学校卒業
1893年 イリノイ大学建築学科卒業
1894年 東京工業学校附設工業教員養成所木工科授業方取調
1902年 東京高等工業学校建築科教授、建築科長
1917年 同校退官、あめりか屋顧問
1923年 蔵前から大岡山に移転した東京高等工業学校に 
    嘱託として復帰
1930年 復興建築の設計及び計画調査をつとめた

3.下田菊太郎(1866年 - 1931年)秋田県角館町(現仙北市)

1866年 佐竹藩士・下田藤右衛門の次男として
     秋田県角館町に生まれる
1871年 一家で秋田市に転居
1880年 秋田師範学校中学予備科に入学する
1882年 中途退学して上京
     工部大学校入学を志す
     慶応義塾に入学する
     三田英語学校転校
1883年 工部大学校に入学
1885年 専門科の造家科に進学
     同期に横河民輔がいる
1886年 父が急逝
     海軍貸費生になる
     文部省の山口半六の教えも受ける
1887年 大学校を中退する
     文部省営繕課に雇われる
     「欧米建築一般」という住宅紹介書を出版
1889年 アメリカに渡る
     ページ・ブラウン建築設計事務所に就職
1892年 シカゴ万国博覧会カリフォルニア館コンペに
     現場管理副主任としてシカゴへ赴任
     万博工事総監督のダニエル・バーナムに師事  
     し鋼骨建築法を学ぶ
     アメリカ国籍を取得
     バーナムの事務所へ移籍
1895年 シカゴに建築設計事務所を設立
     米国免許建築家試験に合格した
     短期間だがフランク・ロイド・ライトの下で
     働いた
1896年 片山東熊が東宮御所造営技監として
     訪米した際バーナムを片山が紹介
1898年 帰国
     東京に事務所を開設
1901年 横浜に外国人専門の
     設計施工業会社(下田築造合資会社)を開設
1903年 東京帝国大学で鉄骨構造の講師をする
     講師は下田と横河民輔
1916年 太平洋学術会議に参加
     耐震構造に関し内藤多仲らと討論
1918年 再度渡米
1919年 帰国
1920年 帝冠併合式意匠の主張を活版小冊子を
     作って配布
1926年 スイス・ジュネーブ国際連盟会館コンペに落選

4.手中千代太郎(1866年 - 没年不詳)

1882年 皇居御造営事務局建築課十等図工となる
1889年 場所付雇として宮内省内匠寮に入る
1892年 内匠寮技手となる
1894年 葉山御用邸の建築を担当
1900年 日光田母沢御用邸侍医局建増工事を担当
     大喪使書記などをつとめる
1914年 退官

5.遠藤於莵(1866年 - 1943年)信濃国筑摩郡福島(現・長野県木曽郡木曽町)

1894年 帝国大学工科大学校造家学科で建築学を学ぶ
     野口孫市・大澤三之助・矢橋賢吉と同期生
     卒業後、神奈川県技師に就任
     横浜税関倉庫、生糸検査所建設に関わる
1898年 横浜正金銀行技師になる
1904年 妻木頼黄設計の本店建設が竣工
     鉄筋コンクリートの本格的研究を開始
1905年 横浜に設計事務所を開設
     以降は在野で設計活動を行った
1909年 再び神奈川県技師に任じられる
     著作を刊行し始める
1929年 日本建築士会建築競技調査委員長

6.伊東忠太(1867年 - 1954年)山形県米沢市

1867年 米沢に生まれる
1871年 米沢藩藩学・興譲館入学
1873年 父・伊東祐順が軍医を志願
     家族と共に上京
     番町小学校入学
1878年 父が下総佐倉の連隊附の軍医になる
     佐倉へ移る
     鹿山小学校に編入
1879年 旧制鹿山中学校入学
1881年 東京外国語学校独逸語科入学
1885年 同校の廃止により第一高等中学校編入
     郷党会の発起人になる
1892年 帝国大学工科大学卒業
     卒論は「建築哲学」
     同期生に山下啓次郎、眞水英夫、
     田島穧造、河合幾次
     伊東は大学院に進む
1893年 「法隆寺建築論」を発表
1897年 帝国大学工科大学講師
1899年 帝国大学工科大学助教授
1901年 工学博士
1902年 建築学研究のため中国、
     インド、トルコへ3年間留学
1905年 欧米経由で帰国
     東京帝国大学教授
1923年 首里城正殿の保存に鎌倉芳太郎と尽力
1928年 帝国大学を定年
     東京帝国大学名誉教授
     早稲田大学教授
1937年 帝国芸術院会員
1943年 文化勲章受章
1951年 文化功労者
1954年 米沢市名誉市民
     逝去、享年87

7.大澤三之助(1867年 - 1945年)江戸(現東京)麻布

1891年 第一高等学校卒業
     東京帝国大学工科大学造家学科に進む
1894年 卒業
     1年志願兵として兵役に就く
1897年 東京美術学校図案科講師
1899年 東京帝国大学で講師を務める
1902年 図案科二部(建築装飾)の教授に就任
1905年 陸軍歩兵大尉となる
1906年 文部省留学生としてイギリスに留学
1909年 フランス、イタリアと回る
1910年 ロンドンの「日英博覧会」のため滞欧
1914年 片山東熊の後任で宮内省内匠寮技師になる1915年 学位(工学博士)を授与される
1920年 内匠寮工務課長
     東京美術学校講師(嘱託)
1924年 宮内省を免職
1927年 新設の東京高等工商学校
    (現芝浦工業大学)建築学科長
1935年 中央工学校校長
1945年 疎開先の鎌倉で逝去

8.三橋四郎(1867年 - 1915年)江戸

幕臣鈴木庸正の四男として江戸に生まれる
1893年 帝国大学工科大学造家学科を卒業
     陸軍省に入る
1898年 逓信省技師となる
     郵便局舎の建築にあたる
1906年 東京市技師となる
     営繕課長となる
1908年 東京市を退職
     三橋建築事務所を東京に開設
     外務省の嘱託となる
     中国東北部やロシア極東部の領事館を設計
     吉林領事館、奉天総領事館、長春領事館、
     牛荘領事館などがある
1915年 ウラジオストクに領事館建築の
     設計監理のため滞在中客死、享年49

9.松本政吉(1867年 - 没年不明)京都府

旧姓は岩田
1896年 場所付雇として宮内省内匠寮に入る
     宮内技手となる
1913年 大正天皇の即位の礼で
     準備委員会書記を命ぜられる
     木子幸三郎の下で二条離宮饗宴場を設計
1922年 宮内技師となり退官した

10.長野宇平治(1867年 - 1937年)

1884年 高田学校卒業
1885年 第一高等中学校予科入学
1890年 第一高等中学校本科卒業
1893年 帝国大学工科大学造家学科卒業
1893年 横浜税関嘱託
1894年 奈良県嘱託
1897年 日本銀行技師
1900年 日本銀行大阪支店臨時建築部技師長
1909年 台湾総督府庁舎設計競技に応募し乙賞当選
1912年 台湾総督府嘱託
1913年 建築設計監督事務所を開設
1914年 全国建築士会第一回会合が開かれる
1915年 工学博士
1917年 日本建築士会第七回会合で初代会長に選出
1918年 渡米
1927年 日本銀行本店増築臨時建築部技師長
1937年 死去、満70歳

11.山下啓次郎(1868年 - 1931年)薩摩国鹿児島郡鹿児島近在西田村(現・鹿児島市西田町)

1867年 薩摩藩士・山下房親の次男として生まれる1876年 上京
     第一高等中学校
1892年 帝国大学工科大学造家学科卒業
     辰野金吾のもと建築を学ぶ
     同期生に伊東忠太
     警視庁入庁
1897年 司法省に移り営繕を担当
1901年 欧米の監獄を視察
     五大監獄を設計
1930年 司法省を辞する
     法政大学工業学校校長に就任
1931年 死去

12.野村一郎(1868年 - 1942年)

1895年 東京帝国大学造家学科を卒業
     同期に建築史家の関野貞
1900年 台湾総督府民政部土木課技師
1902年 台湾総督府民政部営繕課技師
1904年 台湾総督府民政部営繕課技師・課長
1907年 朝鮮総督府庁舎建築設計審査委員を兼務
1911年 台北市市区計画委員を兼務
1912年 茂庄五郎建築事務所
1913年 茂の死後、橋本勉と茂野村事務所を共同経営
1926年 野村一郎建築事務所を開く
1942年 逝去、享年73

13.中條精一郎(1868年 - 1936年) 米沢(現・山形県米沢市)

幕末の米沢藩士中條政恒の長男
東京帝国大学建築学科を卒業
文部省の建築技師となる
建築課札幌出張所長となる
札幌農学校などの建設に当たる
同校土木工学科の建築学講師の嘱託も務める
1902年 東京に戻り千駄木に一家を構える
1904年 上杉憲章とともにイギリスに留学
     ケンブリッジ大学で建築を学ぶ
     帰国後文部省を退官
1908年 曽禰達蔵と丸の内に設計事務所を開設
1928年 フランス政府から
     レジオンドヌール勲章シュヴァリエを授与
     「建築士法」の成立に尽力
     国民美術協会の会頭も15年間務める

14.関野貞(1868年 - 1935年)

高田藩士関野峻節とヤエの次男として生まれる
旧制一高
1895年 東京帝国大学工科大学造家学科を卒業
     卒業論文は平等院の研究
     辰野金吾の指揮下に日本銀行の工事に参加
1896年 内務省技師、奈良県技師となる
     奈良の古建築を調査し建築年代を判定
1889年 平城宮址を発見
1901年 東大助教授
1906年 清国に派遣される
     中国建築の研究にも手を染める
1908年 工学博士の学位を授与
     建築史を講義し「日本建築様式史」を確立
     国宝保存委員会委員・文部省国宝鑑定官
1910年 教授
     平城宮址の研究を進める
1910年 朝鮮総督府からの委託で朝鮮半島や
     中国の古建築調査と保護に努めた
1912年 基肄城跡を確定
1917年 屋嶋城跡を発見
    『朝鮮古蹟図譜』の公刊
     フランス学士院から
     スタニスラス・ジュリアン賞を受賞
1920年 国民軍の石友三によって
     焼き討ちされる前の少林寺を撮影
1929年 東方文化学院東京研究所で、
    「支那歴代帝王陵の研究」や
    「遼金時代の建築とその仏像」などを研究

15.森山松之助(1869年 - 1949年)大阪市東区平野町(現 大阪市中央区平野町)

外交官・貴族院議員を務めた森山茂の子として大阪市東区平野町に生まれる
叔父は五代友厚
学習院
攻玉社

1893年 第一高等学校を卒業
     東京帝国大学工科大学建築学科において
     辰野金吾のもとで学ぶ
1897年 大学院
1898年 第一銀行建築係嘱託
1900年 東京高等工業学校の建築学講座を担当
1906年 台湾に渡る
1921年 台湾総督府営繕課技師として
     官庁建築を手がける
1912年 欧米各国視察のため出張
1922年 東京に森山松之助建築事務所を開設

16.矢橋賢吉(1869年 - 1927年)美濃国不破郡赤坂村

父は惣本家当主・矢橋藤十郎
母は矢橋宗太郎二女勝後改幾世
矢橋徳次郎は賢吉の長兄
矢橋為吉は次兄
大垣中学 (岐阜県立大垣北高等学校)
第一高等中学校

1894年 東京帝国大学工科大学造家学科卒業
     在学中に辰野金吾、中村達太郎、石井敬吉、
     小島憲之、木子清敬らの薫陶を受ける
     卒業設計のテーマは「A HOTEL」
1896年 工手学校造家学科教授就任
1898年 大蔵省臨時葉煙草取扱所建築部技師に就任
     妻木頼黄と出会う
1899年 臨時税関工事部技師となる。
1902年 工手学校造家学科教授を辞任
1904年 農商務省より米国博覧会参同準備委員
     に任ぜられる
     敷地選定のためアメリカに渡る
     臨時煙草製造準備局技師となる
     建築部第一課長を命ぜられる
     臨時税関工事部技師、大蔵技師を兼任
1905年 大蔵省臨時建築部技師となる
     第一課長となる
1906年 大韓医院建築工事臨時監督として
     大韓帝国に渡る
1908年 武田五一ともに欧米へ出張
     ワシントンD.C.及び各州会議事堂を見学
     カナダを経てヨーロッパへ渡る
     イギリス、ドイツ、フランス、スイス、
     イタリア、オーストリア、ロシアにて、
     各国建築の沿革並びに設計監督方法のほか、
     様式、装飾、構造、設備などの調査を行なう
1913年 大臣官房営繕課長として
     臨時建築課勤務を命ぜられる
     皇太子嘉仁の天皇即位礼のため
     大禮使事務官造営部員を拝命する
1917年 帝国議会議事堂建設の為の
    「議院建築調査会」の委員となる
     辰野金吾、横河民輔、塚本靖、
     山下啓次郎がいた
1918年 議事堂建設の担当部局として
     大蔵省の臨時議院建築局工営部長となる
     国会議事堂の設計の審査員となる
     審査員は柳田國男、寺田栄、塚本靖、
     丹羽鋤彦、山下啓次郎、辰野金吾、
     横河民輔、古市公威、中村達太郎、
     正木直彦、曽禰達蔵など12名である
1919年 工学博士号を授与される
     大蔵大臣官房臨時建築課長を命ぜられる
1923年 大蔵省臨時営繕局同局技師として
     工営部長となる
1925年 営繕管財局官技師として工務部長となる
1927年 帝国議会議事堂本館の上棟式の
     式典役員として参加
     急逝

17.新山平四郎(1869年 - 不明)茨城県

1890年 工手学校(現工学院大学)造家学科を卒業
1893年 東京郵便局電信局傭員
     逓信省郵便電信書記補
1896年 逓信省退官
     文部省技手
1907年 文部省技師
     文部省札幌出張所長
1909年 文部省秋田出張所長
1912年 文部省桐生出張所長
1918年 文部省横浜出張所長
1931年 文部省退職

18.西原吉治郎(1869年 - 1935年)長門厚狭郡厚南村大字東須恵(現・山口県宇部市)

父は西原英治郎、母はノエ
1869年 長門厚狭郡厚南村大字東須恵に
    (現・山口県宇部市)
     西原家の長男として生まれる
1889年 工手学校(現・工学院大学)造家科に入学
     造家学会(現・日本建築学会)に入会
1890年 第3期生として卒業
1891年 東京・紀尾井町の伏見宮邸で
     製図と監督係の補助を務めた
1892年 高原弘造の補助として
     市村座で現場主任監督方を務める
1893年 臨時兵庫県雇として工場主任を務める
     堤防や橋梁などを設計した
     西原家の家督を相続する
     同郷の杉益子と結婚
1894年 東京・麹町の行政裁判所庁舎の
     工事監督補助を務める
1896年 紫野織物合資会社の新築主任技師となる
     工場や倉庫や寄宿舎を設計工事監督を務める
     京都銀行と大阪製帽会社の設計を委託される
1897年 福岡県土木課営繕係に奉職
1901年 日本赤十字社福岡支部の設計と
     工事監督を引き継ぐ
     福岡県での博覧会
     九州医科大学(九州帝国大学医学部)校舎
     旧制福岡県立東筑中学校
     (現・福岡県立東筑高校)
     小倉工業学校
     (現・福岡県立小倉工業高等学校)
     などの設計監理を担当
     福岡県福岡工業学校で
     (現・福岡県立福岡工業高校)
     非常勤講師を務める
1906年 愛知県営繕係に転職する
1907年 県委員を務める
     営繕係の中心人物となる
1905年 旧制第八高等学校
1910年 第10回関西府県連合共進会
     愛知県商品陳列館
     愛知県女子師範学校
1911年 愛知病院・医学校
    (現・名古屋大学医学部附属病院)
     愛知県第五中学校
    (現・愛知県立瑞陵高等学校)を担当する
1917年 愛知県営繕課を退職
1918年 名古屋市内に「西原建築工務所」を開設
     名古屋市で最初期の個人建築事務所
     南設楽郡新城町の新城町立実科高等女学校
     (現・愛知県立新城高校)
     碧海郡安城町の安城町立安城高等女学校
     (現・愛知県立安城高校)
     などの学校建築を手掛ける
1917年 西尾市の岩瀬文庫書庫を設計
1922年 三重県四日市市の富田病院
1922年 名古屋市栄町の尾三銀行本店
1925年 西尾市の岩瀬文庫児童館
    (現・西尾市立図書館おもちゃ館)などを設計

19.野口孫市(1869年 - 1915年)播磨国姫路清水(現姫路市)

姫路藩士・野口野の子として生まれる
姉は日本の幼児教育の先駆者的存在となる野口幽香
父に付き従い生野銀山で一年余り過ごす
父の転勤で神戸に移る
兵庫県立第一神戸中学を卒業
第三高等学校を経て住友の奨学金を貸与される
1891年 東京帝国大学工科大学造家学科に進学
1894年 卒業
     大学院で耐震家屋について研究
     内匠寮担当の奈良帝国博物館
     (奈良国立博物館)の工事に関わる
1896年 逓信省に入る
1899年 住友家に招かれる
     住友本店に入社
     住友銀行建築取調べで英国、欧州視察に発つ
     ヴィクトリア朝末期のロンドン建築を学ぶ
1900年 住友本店に着任
     臨時建築部(住友営繕、日建設計の前身)の
     技師長となる
     建築部には日高胖、山本鑑之進、
     小川安一郎、長谷部鋭吉などが入社
1904年 大阪府立図書館(現大阪府立中之島図書館)
1903年 住友家須磨別邸
1904年 伊庭貞剛邸(現住友活機園)
1906年 サンフランシスコ地震の調査で派遣される
1908年 田辺貞吉邸(現武田薬品百草園迎賓館)
1908年 鶴崎邸、住友銀行各地支店、
     大阪明治生命保険会社、大阪倶楽部、
     大阪中央電気倶楽部
1915年 工学博士となる
     若くしてこの世を去る

20.塚本靖(1869年 - 1937年)京都

1893年 東京帝国大学工科大学造家学科を卒業
     明治美術学校講師嘱託となる
1899年 東京帝国大学工科大学助教授に採用
1899年 ヨーロッパへ研究留学
1906年 工芸品意匠調査のため清国出張
1909年 日英博覧会のためのイギリスに派遣
1920年 同校教授に昇進
1920年 工学部部長を務める
1929年 退官
     名誉教授となる
1937年 帝国芸術院が新設されると会員に選出
     同年死去、享年68

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