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僕の春
昨夜は風が強かった。
「この辺りだったかな」
よいしょと口に出しながら重たい腰を下ろし、胡座をかいた。
見上げると八重桜の木と木の間からちらりちらりと薄月がこちらを見ている。
年に一度、君と桜を見る。
付き合った頃からそうしていたが今は違う。
350mlのビール缶と、君の好きだった駅前のドーナツを持って一人でここに来る。
約六十年、彼女と過ごした幸せな毎日を思い出そうとするが、朝ご飯に出てきたしょっぱい卵焼きよりも先に浮かんでくるのは恍惚とした瞳と最後の言葉だ。
あと何年ここに来られるか分からないとばかりに手の甲には皺とシミだらけだった。
死んでしまえばもうここには来れないが、君に会うことは出来るのだろうか。
こんなしわしわな爺さんを覚えているだろうか。
「これ、好きだったよな」
デコボコとした地面の上にドーナツを置く。
壮大に美しく咲く桜をまったりと一時間ほど観賞し、ビールを一気に飲み干した。
夜桜を見ようとわらわらカップルが集まり始めたので、重い腰を上げ被っていた黒のハンチング帽子を出来るだけ深く被った。
「また来年だ」
そう呟いて名残惜しくもその場を去った。
絨毯のように寄り集まった花弁の下には白骨化した僕の奥さんがいる。
82歳の君はこう言っていた。
「どうせ散るなら懸命に散りたい」と。
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