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この関係に名前なんていらないから

長年友だちの定義に苦しめられてきた。

中学のころ、大学1年生のころ、少しでも多くのグループに所属したくて、友だちの「数」こそが大事だと思って行動して無理をした。

遠くに住む親を安心させたかったからかもしれない。
大学でこんなに友達ができたよ。楽しく元気にやれてるよ。
そんな様子を、心配LINEを度々送ってくる母に見せたかった。

そして、Instagramでフォロワーやスキを稼ぐような社交的な自分を創り上げることが一種の自信になるような気がしていた。
実際は、そんな自己顕示欲まみれる投稿を後から見返して情けなくなるだけだった。

あれから数年たった今、InstagramもTwitterも消してしまった。

リアルの世界では他人の意見に耳を傾けつつも自分の意見を言えるようになったし、”自分の正しさ”を振りかざす人に反論をすることもできるようになった。

だけど、友達ってなに?

そもそもカテゴライズすることが愚かなのだろうか。



私の今の友人関係は色々な目的と結びついている気がする。

恋愛話ならこの子
勉強・学術系の話をするならこの人
日常の些細な出来事を話すならこの子

と言った具合に。

もちろん、そう目的と紐づけてしまうのは、私自身が他人からそういう対象になり得るからでもあり、そうされること自体に私が確かな誇りともプライドとも言うべき感情を持ち合わせているからでもある。別に嫌ではない。

ただ、状況や場面によって特定の人物と別の目的で相対するときは別だ。

ときには勉強仲間であり、ある目的に向かい鍛錬する同士であり、愚痴を聞き合う飲み友のようでありながら、ある種”特別な関係”として互いを思い合う。

そんな人に私は耐えられない。

耐えられない、というよりは混乱してしまう。


そんな、状況によって”名前の変わる友人”に、私はだいぶ頼ってしまったし、傷つけたし、心にもない酷い言葉を浴びせてしまった。

相手を悪とする物言いで、自分を正当化するのに都合の悪いことを自己都合で見て見ぬふりをしていたこともあった。

いまではそんな自分を後悔している。


あんなに大事に思っていたのに、好いていたのに、かけがえのない日々だったのに。

どんな名前の関係性でもいいから、貴方を人間として好きで尊敬していたから、もっと素直になれたらよかった。


私が貴方との約束を破ったあの日。
お互い同意の上で、待ち合わせをして、迎えに来てもらったのに、私は突然貴方を軽蔑した。




「許してもらえるとは思わないけど、気が向いたら連絡して欲しい」



その言葉は嘘じゃないから。


もし戻れるのなら、あの日あの時間に戻りたい。


貴方との関係をこれで終わりにするのは耐えられない。

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