わたしの中の自分ルールの意味のなさに気付いた話
日本に住んでいた時、なぜか思っていた事や願っていた事、気になっていたことが実現する事が多かった。それは割と定期的にあった。この人素敵!って第一印象で思うひととの出会いもたくさんあった。
だけど、オーストラリアへ来てからなぜかその現象がピタリとなくなった。日本にいた時はふっと沸いたように起きていた現象が、オーストラリアでは自分から行動しないと実現させられなくなった。ずっとなぜだろうと考えていたけど答えは出ず。
でも最近、ようやくなんとなく分かるような気がする。オーストラリアに来てからは常に緊張と人と比べる劣等感みたいなものがある。自分の知らなかった気質を知った。英語が下手だ、という自分で決めつけた思いが根底にあり、あの人は上手だなあーとか、あの人はちょっと下手やね、なんて勝手に一人で優劣をつけてみたり。人と会話をしている時は、なんて言っているか分からない時は未だにある。だからこそ、自分が人と話すときに、意味が通じなかったらどうしよう、ともちろん思うのである。
わたしは人の顔色でなんとなく考えていることが分かる。だから今までも、顔色を見て話していたと思う。話しかけんなよ、というオーラの人には絶対に話しかけない。だけどそんなわたしの中の常識は彼といたらすぐに崩れる。彼は誰かれ構わず話しかける。人見知りなんてものは無い。
例えば、レジでお会計中に、わたしは店員さんの顔をみてこの人話しかけんなよって顔してる、と思って何も言わずに静かにしていると、彼は全然お構いなしに話しかける!そしてその店員さんもノリノリで話しにのってくれている!あれ?わたしが感じたあの話しかけんなよオーラは?と、いつも戸惑う。実は今まで人の顔色で気持ちが分かると思っていたけど、全然分かっていなかったのかもしれない!
わたしの中の自分ルールはいつも彼といたら通じない。意味がない。この自分ルールで今までいろんなことを逃していたかもしれない。海外に出てみて、日本で育てられてきた他人を思いやる気持ちというのは、ここではあんまり意味がない。というか、もっと自分勝手になったほうがいい。他人の気持ちより自分の気持ちを優先させること。他人を傷つけて良い、と言うことではなくて思いやりを持った上で、自分の気持ちに従うこと。これで、少し暮らしやすくなると思う。
NOと言えない日本人、なんて言われるが本当にそう。わたしもNOと言った日には頭の中でずっと、いまNOと言ってみたけど大丈夫だったかな、嫌われないかな、とか自分がしたほうが良かったかな、なんていう後悔の念が無限ループする。でも、それでいい。少しずつ慣れていくしかない。嫌なことにはNoと言う。この訓練が必要だ。それが、自分の気持ちに従うということで、自分の環境は自分で作っていくしかない。他の誰も作ってくれやしない。
自分の存在を認めることと、自信を持つこと。これがオーストラリアに来てからはまったく出来ていなかった。だから思考の現実化に繋がらなかったのかな、と思う。そんなネガティブな感情を常に持っていたから、そのネガティブになる状況を更に引き寄せていたかもしれない。
英語の勉強は、コロナ自粛で通えなくなりストップしていたのでまた再開する。英語の勉強もしながら、自分に自信を持つこと、自分の事を最優先することも少し訓練しながら、もっともっとこの大好きなオーストラリアでの暮らしを豊かにしていこうと思う。