本棚と抜け殻 前編

アリスは酒を好まず、電子機器の扱いに疎い。料理ができない。生き物や植物を死なせてしまう。いつ抱きしめても匂いがしない。僕が働きに出ている間のことはよくわからないが、知っている限りでは食事中でも入浴中でも、絶えず何らかの本を読んでいた。海外作家の小説から流行りの自己啓発本まで、あらゆる種類のものを読むようだった。彼女の纏う空気には俗っぽさや生活感の影がなく、その分だけ人間味、あるいは現実感が薄かった。だから、監視カメラを設置して僕が会社へ行きながらアリスを覗き見することに決めた際もさほど抵抗を覚えなかった。口数が少なく、撫でてやると微笑む、愛玩動物のような妻だった。ペットカメラと同じで、彼女の何かを侵害している気分にはならなかったのだ。僕にとって理想的な妻であり、理想的な家庭だった。監視カメラ越しであっても、僕が選んだ木目調の家具に彼女の趣味の良い洋服や美しい白い肌、濡羽色の毛髪と瞳がよく馴染んで調和していた。

きっかけは些細なことだった。アリスは多くの本を読む。まれに図書館から借りてくることもあったが、基本的には書店か古本屋で買ってくるものがほとんどで、それらは書斎にある彼女専用の壁一面の大きな本棚に収められている。読書好きには珍しく本の扱いは雑なほうで、ブックカバーはたいてい彼女の手によって剥がされ破棄されており、本は本棚や、その周辺に無秩序に積み上げられていた。僕は読書に時間を費やすよりは音楽を聴いたり映画を観たりすることを好んだが、たまには彼女から本を拝借した。本を借りるのに、わざわざ許可をとる必要はなかった。その夜も、共に夕飯をとったのち彼女が寝てしまうと、時間を持て余した僕は本棚から暇つぶしのお供を見つけだそうと書斎へ向かった。

書斎といっても一般的にイメージされるような立派な部屋ではない。壁一面の本棚の他には、僕が小学生の頃に買ってもらった図鑑やら、大学時代に使っていた外国語の辞書やらが並ぶ面白味のない本棚がもう一つあるだけで、木でできた立派な机も安楽椅子もない。空いたスペースには普段使わないスーツケースやシーズンオフの洋服などが隠されるように収納されている。北向きの部屋なので日光は射すことがなく、本の保存には良いのだろうがどことなく黴臭い。照明も小さな電球ひとつなので、ここで本を読むことは僕もアリスもしない。選んだ本をリビングが寝室へ持っていくスタイルだ。ジャンルや出版社、著作者名順に並んでいる本屋においてですら、本を選ぶという作業には第六感のようなものが必要になる。タイトルや背表紙、もしくは著作者のペンネームの雰囲気から、本能が面白そうだ!と叫ぶものを見つける。彼女の無秩序な本棚であればなおさらだった。本棚は僕の背丈よりも高く、すなわち彼女の背丈よりも高い。彼女の手の届かないはずの範囲にも本は詰まっており、おそらく何かに登るなどして出し入れしているのだろう。僕はふと、自分の目の届かない場所にある本を読もうと考えた。椅子をリビングから引っ張ってきて、その上に立ち、普段は見えていなかった本の表紙たちを眺める。面白いものを見つけたのだ。本棚の一番上段、一冊のハードカバー。文庫本ばかりなのでハードカバー自体が珍しいが、浅葱色の背表紙の状態も綺麗で、その並びで一冊だけ、埃をまったく被っていなかった。最近読んだのだろうか?手にとると、表紙にはシンプルな、しかし得体の知れぬ幾何学模様(数学の教科書の表紙によくあるようなものを思い浮かべてほしい)と、『シュレーディンガーの猫について』というタイトルが白色で印字されていた。

哲学書か数学書の類だろうという僕の推測は、登っていた椅子から降りて表紙を開くとすぐに覆された。

親愛なるアリス、あるいはアリスだった君へ

ただでさえ印象的な献辞である。僕はこの本を一晩で読み切った。アリスだった君、というこのアリスが、そして作中に登場する「彼女」の正体が、僕の妻であるアリスであるのは明白だった。

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