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日記

写ルンですを買った。八月のあいだはこれと、鞄に余裕があればチェキを持ち歩くつもりでいる。丁寧でいたい。朔日ということばは綺麗だな。長くて息苦しい梅雨が終わってみるとここは夏でびっくりしてしまう。時が解決する、という常套句があるけれど、いまはもっともっと長い目でみる必要があるのだなとおもう。ネットやツイッターでこまめに情報を得られるようになって、知りすぎて、鈍感でいられなくなって、すぐに余裕をなくして、目をとじることもすこしは考えてみるものの、でも、直視するのを、直視した気になるのを、わたしはきっとやめられないのだろう。ひとは完全に絶望しないためにどんな苦境のなかにも一パーセントの興味を抱くらしく、その一パーセントのためにわたしはなにもかも見ようとしてしまうのかもしれない。
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駅員や乗客がブルーシートを持ちあげてなにかを囲っていて、その隙間から、心臓マッサージを行う手の動きがちらと見えた。ひとびとはブルーシートを避けて改札や乗り換えのホームへむかっていく。いつか知っているひとの心臓がとまること、どれくらい想像して、どれくらい受けとめているのだろうとおもったときに、なにひとつ覚悟ができていないことに気づいて泣きそうになった。長く生きるほどに見送ることのほうが多くなる人生になる。慣れる、のだろうか。相応の年齢になれば、仕方がない、とおもえるのだろうか。ブルーシートのなかにいたひとのことは、検索する限りではニュースになっていない。どうかご無事で。息をして。
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〈彼らはヒキガエルに対して何を持っているの? 不公平だ! ヒキガエルには権利がある! これはガマの虐待だ!〉
「すごい翻訳やな」
「ああ、このひとキノピオをヒキガエルって訳してしまうねん」
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知りあいの書いたものが当人の不本意なかたちで拡散されて、攻撃されているのを眺めている。そうなるまえから危ういことば遣いをしているなあと警戒してしまう、何度読んでも当人の表現したいことの面白さよりも誤読されそうだなという不安のほうが上回ってしまうような文面だと感じていた。表現の自由、ということばがあるけれど、自由を定義された瞬間から表現は自由という枠組に閉じこめられた不自由なものなのであって、自由は表現を甘やかす理由にはならないとおもう。非難されるようなことを書くな、とはおもわない、でも、行き届いていないことばを投げつけておいて正確に読みとることのできなかった相手を嘲笑うなよ、それをしてしまうと書き手のがわの技量不足が余計に明らかになってしまうよ、と怒りと呆れの混じった感情に苛まれる。肯定でも否定でもなく、揶揄でもない小説のようなことばが機能しにくくなっているくらいに、インターネットは現実の、話しことばの世界になりすぎたことを、ときには戦うべき場所を選ぶということを、よく観察して選択していかないとなと退屈なことをおもった。
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『鑑定士と顔のない依頼人』を観た。壮大で美しくって、誰かを救えたときの甘美なきもちや愛を知ってからの世界は輝いていて、だから夢からさめたかのような残酷なラストを迎えたときは呆然としてしまった。贋作も本物になりえるのなら、偽装された愛も芸術だった。作中でそう説かれていたのに、すべての愛は本物にみえて、どうしたって信じてしまえる。art、という英単語にずるさとか作為とか、そういった意味があることをおもう。
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はつなつをはつねつと呼び間違へて波といふ字のつくりを思ふ

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