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日記

鴨川にふたり並んで座るだけの日がくるとは想像していなくって、まるでカップルのようなことをしている、とおもった。十一月のはじめだった。
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映画『フラグタイム』を観た(その節は投票のご協力ありがとうございました)。ひとと関わりをもつことが苦手ゆえに時間を約三分とめる能力を得た森谷美鈴と、誰とでもそつなく関わりあうことができるけれどじぶんを主張しない村上遥の物語。ここのところ、我儘や怒りは場を取りもつために控えなければいけない、しかしそれではじぶんのほんとうの感情ばかり否定されて行き場がなくなるのではないかといったことを考えていた。不機嫌は他者を遠ざける、でも抑えれば抑えるほどにじぶんを死なせてしまうということ。それから、愛、という状態以外に、大切、を示す方法があればいいなということ。それらが『フラグタイム』でたまたま描かれていて、似たようなことを考えるひとがほかにもいるのだなとひどく安心したのだった。オンリーワンをよいこととする風潮があるけれど、世の中は特殊さを孤独に仕立てあげることを忘れてくれないし、じぶん勝手ということばで縛って見逃してくれない。
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「飛行機」
「うん」
「クロスするかな?」
「するんとちゃう?」
「ふうん」
「あっちが北京から東京にいくやつ」
「うん」
「こっちがサンフランシスコから上海にいくやつ」
「へえ」
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クリスマスツリーを買った。靴箱のうえに置けるくらいのちいさなものに、別で買ったLEDライトをくるくる巻いてスイッチを押すと騒がしいくらいによく光る。クリスマスツリーがある家にずっと憧れていた。季節の移ろいを喜ぶことも、来年もじぶんたちがともに生きているという祈りに似た想像も、すべて詰まっているから。子どもができたら、広い家に引っ越したら、もっと大きなクリスマスツリーを買おうと誓う。そういえばロームのイルミネーションがはじまっている。冬は木々の葉を惜しむ、人間はさびしいものが苦手。あるいは光るものがすき。
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本のはなしが追いついていない、と何度も書いていた気がする。平野啓一郎さんの『マチネの終わりに』のことを書いた記憶があるのだけど、あのあとは野口あや子さんの『眠れる海』、最果タヒさんの『十代に共感する奴はみんな嘘つき』、マルグリット・デュラスの『愛人(ラマン)』、海猫沢めろんさんの『愛についての感じ』、川越さくらこさんの『火の破片』を読んでいる。以降、いろいろな用事や締切をこなしていくうちに疲れてしまったのか読書の欲が消えてしまっている。ゆっくり過ごさせてくれというきもちが先行していて、毎日のようにやっていたリングフィットアドベンチャーもさぼってしまっている。からだを動かさないとどこまでがからだかわからなくなる、じぶんというものがこころに収束されて、感情だけが滞って肥大する。世界が縮んでいくような気がして、すこしこわい。
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だれにも伝わらないことに恐れはないけれど、あなたというたったひとりに伝わらなかった、後悔や憎悪のようなものに足をとられてしまったとき、どう振り切ればいいのかがわからない。
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「柿って言って」
「かき」
「魚介類の牡蠣は?」
「ああ、イントネーション違うんやんな。けどわたしは区別つかんほう」
「おれもようわからへん。かきかき言ってたらイントネーション違うねって言われた」

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