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日記

きみの若さはわるい若さ、と言われて十一年が経つ。先生、お元気ですか。わたしは相変わらず焼肉の肉を義母に焼かせるし、たべるのがなんとなく面倒くさくって夫がまわしてくるチシャ菜を拒みます。ほんとうはソーセージを焼いたのがすきだけれど言えないでいる。おまえほんとうに気のきかない子だな、とわたしがいっぺんに焼きすぎた肉を皿にあげながら先生が呆れていたあの日も夏で、あのときはひどい恋愛を、ひどいとわかりながら関わったすべての人間を後悔させるために冷静にまとわりつかせていたのだった。おまえ恋ばな上手いな、恋愛小説書きなよ、という先生の提案にはなるべくのらないようにしている。
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〈それぞれが異なるものになりたいあまり、自分たちの疵や、独自のものを強調してきたのだ〉
ヴァージニア・ウルフ『波』
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GARNET CROWの「涙のイエスタデー」に出てくる〈大事な哀しみも見失いそう〉という歌詞のことをわりかし大事に憶えている。哀しみが癒えてはいけないと言っているのではなく、哀しむべきときにきちんと/正しく哀しむという行動をとる、といったことを述べているのだと解釈している。グラスのなかの氷が溶けて飲みものが薄くなるように、日々を重ねれば重ねるほど哀しみも味気なくなってくる。仕方のないことで、いたって自然なことだとおもう。SNSのトレンド欄を見ていると、哀しいとかつらいとかむかつくとか、そういった感情の表明を見かけることが増えてきていて、わからないでもない、誰かに理解してもらうということはじぶんは孤独ではないと認識するかんたんな方法だから、世の中は言ったもの勝ちで進んでいくから、でも、誰かの傷が大衆に溶かしこまれて一般化されていくごとに、その傷をもっていなかったひとたちの普遍が奪われて窮屈になっていく感じがして不気味だなあとおもう。むかしからそうなのか、SNSがあるからそうなったのかは判別できないけれど。津村記久子さんの『君は永遠にそいつらより若い』で語れるやつを妬むなと言ったあのひとは、いまの時代でも特別になれるだろうか。あの小説をはじめて読んで十一年、再読してからも数年経っているけれど、わたしはずっと妬むがわにいるような気がする。とはいえ妬まれるがわに行く気はないから、これからも悲鳴みたいな他者の感情のすぐそばで生きていくことしかできない。
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数日前におもいついたことを、依存、の一語で台無しにして、わたしたち、いままでどうやって識別しあっていたのだろうね。健康診断の日に派手に動いてお腹が減るとまずいからと読んでいた『氷の城壁』の続きが気になっている。二十一話以降は一日に一話ずつしか読めない。年齢を重ねれば他者のことにもっと寛容に、鈍感でいられるとおもっていたのは、そうありたいと願っていただけで、行動にうつさなかったから、そうはならなかった。誰かのことをくるくると考えているガキ臭い感じも、誰かのことほど考えれば考えるほどじぶんに跳ね返ってくる息苦しさも、捨てかたがわからないのでとりあえずいまのところは引き受けている。わたしが着ていたドンキーコングのTシャツを見た心電図担当のおねえさんが、ファミコンなんて知らんやろ、と言い、そうですね、スーパーファミコンはうちにありましたけど、と返して、確実に、大人にはなっているのだけれど。
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かな、で詠嘆する余裕もないくらい、溽暑だなあ、とおもう。通された席がだいぶ眩しい。

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