日記
二人称は詩のことばではないと気がつく瞬間があって、なんでそうおもっていたのかもわからないままに、けれども二人称の違和感を忘れないようにしようとむかしから決めていたことを再認識したのだった。詩のように美しい二人称小説のこと。リチャード・ブローティガンの『西瓜糖の日々』。あの小説を読んだのは大学一回生のときで、西瓜糖で世界ができていることと、ポーリーンという名前のひとがいることと、なんだか虎が出てきたことと、締めくくりの七音以外のことはあまりおもいだせない。逆に読んでいたときのできごとは覚えていて、七月で、学科の友人たちと祇園祭の宵々々山だか宵々山だか宵山だかに行って、そのあとあるひとりの家で飲んでいたときにアゴタ・クリストフが亡くなったことを知った。でも、調べてみるとアゴタ・クリストフが亡くなったのは七月二十七日だから祇園祭のときなわけがなくて、どこかで記憶が食い違ってしまっている。祇園祭のとき以外にも学科の友人たちと遊んで飲んだのだっけ。けっきょくおもいだせていない。
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「はい、ぽち〜。なんか欲しいものある?」
「本はいつでも欲しいけど、ううん……あ、おろし金欲しい」
「なんやったけ、あれ」
「プレーン……なんちゃらプレーン?」
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二週間まえから趣味でやっている文芸誌の締切がつづいていて、じぶんが締切をこなすにしても、ひとの締切をとりしきるにしても、さすがに疲れてきた。だからきょうは漫画を読んでだらだらと過ごすことをゆるしている。『かぐや様は告らせたい』の九巻から十一巻まで(さいきんは電子書籍で読んでいて、何円使ったかわからなくなるので月に三冊までと決めている)。かぐやと白銀の、両想いなのになかなか実らない恋のことを読んでいるのも忘れて、石上がどんどん愛おしくなってくる。正義を貫くことが、傷ついた過去から前をむくことが、どれほど大変で勇気がいるか。そしてきちんと描かれていなかったひとびとの顔がある場面を境にちゃんとわかるようになる描写が、もう、たまらない。見えてはいたけれど見てはいなかったというような。それからじぶんのことを押し隠している早坂のことも、ひとの背中を押す白銀の優しさも、いい話のあとにとぼけた話がくる緩急も、ぜんぶがすきだ。
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急に周りのものがはっきりとみえる感覚がすきで、詩歌からはそれが得られやすいようにおもう。ずっと、美しいことばが使われているものが詩歌だとおもっていたけれど、そこに物事の莫大な輪郭を包みこむ正しさがあるから詩歌は美しいのだとさいきんになっておもう。おもってもじぶんが書けるわけではないのだけれど。大島真寿美さんの『あなたの本当の人生は』に出てくる森和木ホリーが書きたいものと書けるものは違うといったことを言っていて、まさにこのことなんじゃないかとおもう。
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「これ?」
「うん、マイクロプレイン、それ」
「ぽち〜。はい、他」
「本はいつでも欲しいんやで? ……ううん、はーはー姫」
「はぁはぁ姫」
「伸ばし棒で」
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〈(…)アメリカ映画では、男でも女でも、相手の愛に直面した怯えのためのお喋りを黙らせるために、いきなりキスをして唇をふさぐけど、あたしたちは、まるで声を飲みほしあったような気がする。〉
金井美恵子「あかるい部屋のなかで」(『ピクニック、その他の短篇』所収)
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醤油大さじ3
酒・みりん・砂糖大さじ2
水500cc
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朝食に出ていた唐揚げを見失って、勤め先のお昼休憩のときにおにぎりをかじったら中からその唐揚げが現れてびっくりした。いつもおにぎりをつくってくれるこいびとが入れたらしい。翌日の朝食のときにはソーセージを見失って、やはりおにぎりの具になっていた。変ないたずらを覚えたようだ。おかげでおにぎりをたべるときにすこし身構えなくてはいけないし、ソーセージが入っていてほしくなってしまった。愛おしいできごとだったので、電気を消しておやすみと言うまえに、おにぎりに異物混入されててんけどといたずらに気づいたことをきちんと伝えておく。
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後輩の引っ越しの日と結婚する日をスケジュール帳に書きこんで、ほんまに大安と仏滅やなあとおもって六曜に波線を引いておく。それから語呂合わせでそうなっているらしいなんとかの日というのも書いておく。いまごろ家電や家具を選んだり購入したり、荷物をまとめたり大変やろうなあ、なんてじぶんの一年まえのできごとを振り返りながらおもう。そのころインスタグラムのストーリーで日記をつけていて、ぱらぱらと読み返してみると楽しかった記憶もめんどうくさかった記憶もぜんぶ書いてあった。ふと振り返る日のために正確で美しいおもいでが欲しかったというのが日記を書きはじめた動機だったけれど、いまおもえばそれよりも、そのときじぶんがなにかをおもいながらちゃんと生きていたのだという証が欲しかったのかもしれなかった。引っ越し後は晩ごはんの写真を逐一載せていたけれど飽きたのでやめた。晩ごはんの支度はめんどうくさいかなとおもっていたけれどけっこう楽しい。レトルトや簡単レシピのほうが失敗する傾向にあるから手間をかけたもののほうが性にあっているらしい。引っ越しの日に大学からのともだちが手伝いにきてくれたことが嬉しくて(それ以来こいびととも仲良しになってくれて、そのともだちのためのお茶碗やお箸がある自宅の食器棚がすきだ)、じぶんもそうしたいなあとおもいつつ(じぶん用の食器を忍びこませたいということではなく単純に手伝いたいという意味で)、いやでも役にたてる自信があまりないし人見知りやぞ、引っ越し祝いにとどめるべきなのか、タオルはあんまぴんときてへんかったよな、カトラリーセットとかどうなんやろう、梱包のプラごみがめっちゃ出るからとりあえずプラごみ用のごみ袋はいる、といったことを考えつつお昼休憩を過ごした。
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