日記
大島真寿美さんの『あなたの本当の人生は』を読み終えた。十四冊め(ちょっとした目標があって年内に読んだ本の冊数を数えているのだけれど、目標を明らかにするとできなくなる癖があるのでなにをしているかは秘密。進捗はかなり駄目)。ぱっとしない新人小説家の國崎真実が担当編集者の勧めで憧れの作家・森和木ホリーの弟子に、正式になったのかなっていないのか、そこのところははっきりとしないしさせなくていいのだれど、なんやかんやで森和木ホリーの邸宅で過ごすことになるはなし。お風呂がめちゃくちゃに大きい。物語のつづきがあるという真っ白な部屋に酔う。森和木ホリーの作品の、錦船シリーズに出てくる黒猫の名前からとってチャーチルと呼ばれたり、実はここのところめっきり書いていない森和木ホリーに成り代わって秘書の宇城圭子がエッセイを書いていることを知ってしまったり、國崎真実は邸宅内の事情に取りこまれていく。そして、それぞれの人生が動きだしていく。そのまままっすぐに行ったり、横道にそれた先に広がっていたり。コロッケがめっちゃ美味しそう。大島真寿美さんの小説には、人生、というか、ある人物の時代を描くダイナミックさがあって、それを、しん、と静かでとうめいな終焉として落としこんでいくパワーに毎回びっくりする。『やがて目覚めない朝がくる』や『ゼラニウムの庭』もそう。大衆には忘れ去られるかもしれない、けれども傍にいるひとたちの記憶でずっと生きつづける、振り返ればいつでも桜が咲いていることをおもいだせる春のような死の、柔らかいところがどうにも温かくてふっと寂しくなるのだった。だれかの死が想像よりも体験よりも冷たくないことに皮膚ごと驚くのかもしれない。
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匠の技をタクミノエダと読んでしまうときの深爪きっと割れてる
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津村記久子さんの『君は永遠にそいつらより若い』を読み終えた。八年ぶりの再読。十五冊め。児童福祉司の仕事の内定をとり、大学生生活も残すところは卒業論文のみとなったホリガイ(女の童貞、と本人は言っている)が様々のひとびととのつながりや出来事によりイノギさんと出会うはなし、と書くと簡素になりすぎてしまってなんのことやらとじぶんでもおもってしまうのだけれど、ひとつの筋はイノギさんのことだろう。もうひとつはホリガイが児童福祉司になろうとおもった理由のほう。はじめて読んだのは大学一回生のときの必修授業で、担当教員がこの小説を課題作に入れるのを忘れたといって急遽ディスカッションをすることになったのだった。担当教員が絶賛していて、周りの友人たちにしてもなにかあったときに必ず読み返す本といった意味でバイブルにしていることが多くて、こういう小説が書きたいと憧れるひともいて、けれども当時のわたしは恐れるばかりで内容があたまにちっとも入っていなかったようにおもう。河北の〈語れる奴を妬むな〉という台詞が刺さりすぎたし、アスミちゃんが病院に運ばれるくらい手首を切ったことについて〈俺たちは本物だ〉と述べたことも、吐き気を催したときの胸もとの嫌悪感みたいなものでいっぱいいっぱいになってしまって駄目だった(村上春樹さんの『ノルウェイの森』にも、嫌悪とまではいかないけれど同種の不安を感じる部分があって、わたしのなかでは似ている作品のくくりになっている)。再読しても河北やその周辺の事象に好感を抱くことはないけれど、それよりもホリガイの機動力がめちゃくちゃあるわけでもないけれどいろいろなできごとに首をつっこんでしまって、しかしどれも中途半端になってしまううまくいかなさが、人間そうかんたんに物事が器用に進むことってないよなあとおもえて、ひりひりするし愛したいとおもえた。イノギさんも、翔吾くんも、君も、永遠にそいつらより若いという事実は、ほんとうに強い。
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読んだこともないのにこの本が読みたいという霊感的な判断に陥ることってないですか、変ですかね、まあわたしにはあっていまはコーマック・マッカーシーが読みたい気分なのだけれど、買い置きしている『すべての美しい馬』も『ブラッド・メリディアン』も実家に置いてきてしまっているので取りに行かないといけない。
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醤油の入ったカルボナーラをカルボナーラと呼ぶ自信のなさ、いままでつくったもののなかでいちばんまともだったけれど。
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醍醐寺、東寺の夜桜、滋賀県の朽木のあたりと、きみはそんなに春を確かめたいのか・春はちゃんと来ていましたかと訊きたくなるくらいお花見をして、今週は仁和寺が満開だからそちらに行くのだろうかとおもっていたら行き先は下鴨神社で、急に初夏になってしまったのだった。なんか大きいめの川が見たいとぼんやり言ったことを覚えていてくれたり(それで朽木に行った)、糺ノ森や背割堤は新緑の時期に行くのがすきだとかいう好みを把握してくれていたり、こういうことを愛と呼べたらいいとおもう。景色というよりも風に撫ぜられた葉と葉の擦れる音や砂利を踏みしめる音に神経をよせながら、書いている最中の小説の登場人物たちのことを考えて考えつく。水みくじは大吉だった。
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