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日記

ツイッターのこと、ツイッターという名前だからほいほいと書きこんでしまうわけで、違う名前だったら流行らなかったんじゃないかとおもう。囀り、は春の季語であって、だからツイッターはいつでも春なわけで、だったら最上の愛を見せてくれ、とおもう。正義なんかとすり替えずに、だれかのことを悪なんかに仕立てあげずに。ふるふると身体を寄せてじゃれあう小鳥たちの、愛のためのことばを教えてくれよ。
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おともだちから原稿が送られてきた。手紙よりももっと気まぐれに送られてくる彼女の原稿はファイルを開かなくたって美しいのがわかっていて、ゆっくり読みたいから返信を止めてしまっている。もう書けへん、と彼女が言ったのは喫茶ソワレでジュースを飲んでいたときだった。わたしは書くがわじゃなかってん。読むので充分。それからおみやげの絵葉書やグラスを吟味して、いくつか購入していた。わたしの勝手な考えだけれど、いままでに出会ったなかで書くのをやめてほしくないひとが何人かいて、そのうちのひとりが彼女だ。だからといって、書けへんなんて言わんとってよ、とはとても言えなかった。ことばは無理をして書けるものではないし、無理をして書くと後々肩を壊したみたいになってもっと書けなくなるから。以前から時折送られてきていた、ゆうれい、という音によく似た町のはなしのつづきを、彼女がまた書くことができるようになったことがとても嬉しい。
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「をととひは欠伸をして」(旧作)
あした会ふきみから届く寒星の手紙の文字は右に下がつて
称賛のナイフを呑みて影が揺る東郷青児のグラスを見る目は
をととひは欠伸をしてはきみの詩を冬のかたちの息に燃やして
きみと同じ言葉を持つてゐないこと紅茶に角砂糖ひとつ足す
暗がりに隠してしまへヨーグルト拭つた染みをまるくなぞつて
春昼のランプを落とすひかりとはひからぬものに目を閉ざすこと
傘に糸固結びして開けない世界はレンズ越しなら綺麗
正しさは許しあふこと二重露光フィルムは過去の身代はりになる
花びらを踏む哀しみを終はらせてダンスクラブに降り積もるネオン
始まらない春のシネマできみはきみの名前の靴で歩きだしてよ
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旧仮名遣いのしがらみのようなものは息苦しいけれど、短歌にことばを落としこむときに旧仮名遣いのほうがしっくりきているこの感覚を大事にしたい。それはじぶんのことばを信用することでもあるから。そうおもいつつ、ここさいきんは短歌をつくっていない。俳句の結社誌の締切もすっぽかしてしまった。小説の気分、でもなくて。言の葉、というより、言の蕾のようなものに冷風をあててずっと咲かせないようにしている感じがする。
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ブースとブースのあいだに設けられた通り道をゆたゆたと歩きながら、このひとたちは同人誌をつくるということをいつからやっていて、どれくらいの情熱を注いでいるのだろうといったことを考えていた。ひとつの本をつくって売るのにはうんと体力がいる。わたしはあまりスマートではないから、かき氷のようにごりごりと人生を削っているところがあって(人生のなかで本をつくって売っているという感覚があまりないのだ)、ほんとうにこの生活をしていていいのかなあとおもってしまう。じぶんのブースのメンバーには言ったことがないけれど、同人誌をつくっていることを学科の先生たちから白い目で見られることもあって、研究室に帰るのがときどきしんどくなる。そんなの気にしなくていいですよ、とメンバーは言ってくれるような気はする。じぶんはじぶんだという意思を貫いているあの子たちがとてもすきだ。でも、ほんとうにそれでいいのかと言われると悩ましい。毎年本をつくること、毎年新人賞に応募すること。このふたつを守った三年と守らなかった一年を天秤にかけると、守れなかった一年のほうが重たくて、そら白い目で見られてもしゃあないわなとおもうのだった。わたしたちにプロの書き手になってほしくて先生たちは授業をしてきたのだから。こいびとと同棲をはじめて書く時間をどうやってとればいいかをゼミの担当教員に相談したとき、なんでもかんでもやるのではなくてやりたいことを絞って決めていかないといけないよ、そしてまだ若いから書く時間を捻出する生活にいまなら変えられる、と言われた。書く時間を捻出するのは、早起きをすることでなんとかなっている。けれど、やりたいことを絞る勇気がまだない。
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千惟、という名前をずいぶんひさしぶりに見た。ネットをはじめた当初の、中学二年生のころにやっていたブログで名乗っていた名前だ。その名前でなにをやっていたのかはもう忘れてしまったけれど、その後三回くらい名前を変えてまえの筆名になり、現在の名前、というか番号にいたる。どの名前のときもわたしはわたしだった。でも、名前ごとに仲のよかったひとが違う。わたしは、出会ったひとのことは一生大事にしたいとおもう。些細な出会いであっても、わたしが書いたものや存在で楽しんでくれたらいいなとおもっている。だから、そのひとたちのことを大切にできないと気づいてしまったときに、名前を変えて、住処を変えてしまうのだった。千惟はだれのことを大切におもっていた名前なのだろう。そのつぎの名前は。つぎのつぎの名前は。まえの名前は。いまの名前は。ふと、だれかのことを大事にする勇気が出ないかぎり、いまの名前とまえの名前(イベントではまだまえの名前を使っている)のどちらに重きを置くのかにずっと悩みつづけるのだろうなということに気がついた。す、と切り離せないでいるのは、まえの名前で出会ったひとたちのことがまだ大事だし、まえの名前のわたしを大事にしてくれていたひとたちがいることを知っているからだ。
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「まあ、人間きらいやからなあ」
「でも、人間きらいって言いながら――ちゃんはひとのことめっちゃ見てるし興味あるやん」
「ううん、そうかなあ?」
「そうやで」
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「坂すぐ息あがるわ、やば」
「しんどいよね。職場のひとはさ、こういうの、がんばろ! っていうタイプの体育会系のひとばっかりなんやけどさ、――ちゃんはだるいねって言いながらいっしょにゆっくり歩いてくれるから安心する」
「うふふ、ありがとう」
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「こういうのもあれなんやけどさ、気に入られて期待されるほうも大変なんやで」
「まあ、たしかに、せやわな」
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コーマック・マッカーシーの『すべての美しい馬』と『ブラッド・メリディアン』を実家から引きあげてきた。わたしが置いていった大量の本は押入れに入れられてしまって取り出しにくくなっていた。十冊読んだら十冊持って帰るという計画が頓挫しそうだ。

#日記 #nikki

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