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日記

谷崎由依さんの『藁の王』を買った。読むのがとっても楽しみ。谷崎さんのことばは、美しくて、正しくて、けれどもそこに媚びていないようにおもうからすきだ。
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本屋さんに行くときは、新刊コーナーと、単行本の小説の棚と、詩歌の棚に行く。きのう行った本屋さんは詩歌の棚がぐちゃぐちゃだった。俳句のスペースに歌集が置いてあったり、短歌のスペースに句集が置いてあったり。雑然としているのは平気なほうなのだけれど、分けるなら分けたまえよ! とついおもってしまうのだった。なんてこった、とおもいつつ俳句というジャンルにされてしまった歌集を引っ張りだす。帯に書かれた旧かな遣いの短歌を眺めていたら文字酔いしそうになって慌てて棚に戻す。
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短歌をつくるなら、旧かなのほうがすきだった。似合うようであれば文語にかちっと落しこんだもの。それは、短歌をつくる言語回路がたまたま旧かなの雰囲気と合致したからで、新かなよりもつくりやすくおもえたからだ。なによりはじめてすきになった歌人が河野裕子さんだった。あなたは旧かなや文語で短歌をつくるプリセットがもともと備わっているひとだよ、と言ってくださるかたがいらっしゃって、そのことばを信じるようにしていた。けれど、現代人が旧かなを使うと理由をぜったいに問われるし、旧かなに耽美を求めるような態度は鼻につくしで、ことばが狭く、不自由になっていく感覚が恐ろしくなっていく。旧かなと文語の時代に生きたひとびとは美しいからそのことばを使っていたわけではないはずなのに(それがその時代のことばだったから使われていたはずなのだ)、意味やありかたを現代人によってずらされていく感覚が不気味におもえて、でもことばは時代にあわせて変容するのだからそれはそれで正しいありかたでもあるのかという見方もあるだろうし、考えれば考えるほどにわからなくなっていく。しばらくは新かなを使って、じぶんの言語回路をじっと観察したいとおもう。
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祖母の携帯電話を4Gが入るものに買い換えたら、おととしの夏に亡くなった伯母の携帯電話がまだ解約されていなかった。遺品整理のときには見当たらなかったと母は言う。最期はどうしてたんやろう。ああいうのん、持ち歩いてたんかな。伯母の遺体は捜索艇が引きあげてくれたけれど、携帯電話はいまもまだ川に沈んでいるのかもしれなかった。

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