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日記

「夏井いつき俳句チャンネル」の存在に気がついて、潜りこむように視聴している。こいつは毎日二十一時ごろにYouTubeのアプリをひらいている、とiPhoneに把握されているくらいにYouTubeを見るという行為は生活に溶けこんでいて、だからいまのいままで知らなかっただなんて不思議だった。ちなみに二十一時というのは東海オンエアが動画をアップロードする時間だ。
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美しき手に触れたく思ふまばゆさはサイダーを振る振りかたで来る
撫づ、なんと淋しき語だらう触れあへば無かつたことになる養花天
花の名を囁くやうな日常のたとへば眠る腕を盗む
玉葱を剥くえんえんと剥くいつかきみの悪意を間近で見たい
遠雷に瞼を閉ざすかなしみに岸のあることわすれて 来てよ
終はらない始まりだつたくちづけが零るる星の崩されかたで
たつた一人の怒れるきみのために聴く胎教音楽きつと正しい
手のひらの暴力ぐんと定期券押し当つるとき街を狭める
平熱に擦り切れてゆく銀紙を剥がせばきみは現れますか
云はぬことの増ゆる夏場の戀だらう猫の耳介の冷ややかに透く
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「マリオめっちゃ断末魔あげるやん、やば」
「ははは」
「ギャラクシーのギャは虐待のギャなんですか?」
「じゃあラクシーはなんなんですか?」
「ラクは落下のラクで、シーは……海……これギャラクシーじゃなくてサンシャインやな?」
「せやな」
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短歌に取り組む、ということについて考えていた。短歌をとおしてひとと関わるのがどうも億劫で、おもしろそうな企画を見かけても一歩踏みだせないし、やってみたいことができても大声をだすことができない。「夏井いつき俳句チャンネル」の俳句・川柳・短歌の違いについての動画の最後で家藤正人さんが〈それぞれじぶんのこころの赴くままに、居心地のいいフィールドで楽しんでいただきたい〉と仰ったのを聞いて、わたしが引っかかっている部分のキーワードは居心地だったのだとようやく気がついた。母校の歌会はいい場所ではあるのだけれどホームに帰るような安心感がない。うたの日に投稿していたころは急に距離をつめて話しかけてくるひとがいてはちゃめちゃに恐ろしかった。そういえば、短歌についてのいい記憶があまりない。
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佳い人ほど早く死ぬんですなんて素麺
/池田澄子『思ってます』

「なんて素」まで読んだとき、あたまが予測した続きの語は「敵」で、とんでもないことを言いだしたなと勘違いをした。わたしの言語の引き出しは「なんて素」ときたら『なんて素敵にジャパネスク』だろうとおもいこんでいるらしい。なお、『なんて素敵にジャパネスク』は母の愛読書である。
夏になるとこの句をおもいだす。親戚や旧い友人と家で集まって昼餉をともにする、その最中に、あそこの◯◯さんとこの子結婚したんやてとか、××さんえらい早う亡くならはったなあとか、生き死にのはなしをする。正午のニュースの変な静けさのなか、世間話のなにげないトーンで。茹でるまえの素麺の細さや折れやすさは、命に似ているという言いかたでは安っぽくなってしまうだろう。けれど、繊細なものがぷっつりと断たれてしまうやるせなさが日常に紛れこんでいるのだと気づかされて、悲しみの気配に触れさせられて、ぞっとするのだ。
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秋から登校する大学生への応援メッセージを書いてくれと頼まれて、君たちばかりに我慢を強いた理不尽で偉い大人たちは先にいなくなる・君たちは永遠にそいつらより若いと記したら、えらい尖ったこと書くなあとおもったけど小説と映画化にかけてるんやなあ、さすがです、と褒めるような口調で専務になじられた。標準語に直すと、誰がそんなことを書けと言った、の可能性が高い。ここは京都である。学生生活楽しんでねだとか、応援していますだとか、そういったことを書けばいいのは知っていたのだけど、書けなかった。そのことばを使ったところでわたしには彼ら・彼女らをどうしてやることもできない。嘘にしかならない。でも、津村記久子さんの『君は永遠にそいつらより若い』なら彼ら・彼女らの糧になると信じているし、本とひとを繋ぐのが本屋の仕事とおもう。間違えているなあ、甘えているなあと後悔している面もあるけれど、じぶんが信用できないことばを易々と放つよりはましだったはずだと言い聞かせている。専務には、どうも、とだけ言っておいた。
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肌がかさついてきたのでそろそろ秋だ。ことしは秋がくるのがはやい。誕生日ごろは長袖を着ることになるかもしれない。きょうはじぶんへの誕生日プレゼントとして従業員価格適用で九九九九円ぶんの本を注文した。八月に使った写ルンですの現像は来週ごろにできるらしい。なにもないはずの夏、百日紅という花の散りざまを憶えた。

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