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この別離に手は伸ばさない

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 「私が死んでも世界はありつづけるわ」と言って死んでいった亜紀のことを、ことばとしてずっと憶えている。片山恭一さんの『世界の中心で、愛をさけぶ』は小学六年生のころに読んでいけすかない小説として記憶していたのだけれど、大人になってから再読してみると若い恋人たちの救いの選択肢は〈私が死んでも〉というほとんど諦念でできた前向きさや朔太郎が亜紀の遺骨を風に流して前進する、それ以外にはなかったのだと気づいたのだった。たとえ振り返っても、そこには亜紀は生きていた/亜紀はもういないという事柄しか残されていない。
 あなたがいないことに慣れるのは、いつからだろう。
 身近なひとを永遠に失った経験なんてさしてないけれど、それでもつい先日までテレビで見ていたひとやアニメで声を聞いていたひとの訃報に、これからそのひとと会えなくなるという宣告にふれるたびに、どうしても考えてしまう。きっと、あなたがいなくなるそのことよりも、その不在が時の流れで埋めたてられていくことのほうがよっぽど淋しい。

30-DAY SONG CHALLENGE EX ver.

DAY1 タイトルに句読点が入っている曲

くとう-てん【句読点】句点と読点。
く-てん【句点】文の切れ目に打つ記号。現在は多く「。」を用いる。
とう-てん【読点】一つの文の内部で、語句の断続を明らかにするために、切れ目に施す点。「、」
(『広辞苑 第六版』岩波書店・二〇〇八年)

愛、遠く/劇団レコード

 劇団レコードの「愛、遠く」はKONAMIのリズムゲーム・ノスタルジアの初動からforteにかけて展開していたメインストーリーの解放楽曲だ。大人びた恋愛映画のサウンドトラックをおもわせるメロドラマ臭たっぷりのこんな曲もリズムゲームに落としこむことができるのかと驚いた覚えがある。記憶を失った黒猫・クロが延々とつづく螺旋階段をのぼり、自らの記憶と、いなくなった女の子・ノアの手がかりを探すというメインストーリーから別世界を覗きこむようにして登場する「愛、遠く」の世界では、ピアノ弾きの男性がかつてともに演奏していたバイオリン弾きの女性を失う。死別ではなさそうだとおもっているのだけれど、それは、愛、という地点からいまは遠ざかってしまった、ということばの感触から得た想像である。
 ともに演奏する音楽というのは愛に似て、じぶんと誰かを目にみえないつよいもので結びつける。それはじぶんと誰かのあいだで時間の共有がなされるからだ。サン=テグジュペリの『星の王子さま』に出てくる〈いちばんたいせつなことは、目に見えない〉という一文はあまりにも有名だけれど、この箇所だけを引用すると台詞の発信者であるキツネの意図と受け手の星の王子さまの感情は伝わりきらないようにおもう。

「誰も、きみたちをなつかせたことはなかったし、きみたちも、誰もなつかせたことがないんだ。はじめて会ったときの、キツネみたいだ。最初はほかの十万のキツネと同じ、ただのキツネだったもの。でも、それからぼくたちは友だちになって、今ではこの世でたった一匹だけの、かけがえのないキツネなんだ」
(中略)
「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ」
(サン=テグジュペリ『星の王子さま』――河野万里子訳・新潮文庫・二〇〇六年出版、引用箇所は筆者の責任で中略)

 音楽をとおして、溶けあうように、ひとつとなって過ごした「愛、遠く」の男女の別離は、とくにバイオリン弾きの男性にとって身を引き裂くということばのとおりの痛みが伴ったことだろう。はじめから出会わなければよかったという後悔さえも感じられる物悲しいメロディーは、それでいてピアノ弾きの男性の美しい記憶として昇華されていく。前奏と後奏の力強いピアノの打音はこれからはひとりで生きていくという決心なのかもしれない。そして、メインストーリー上でおなじく別れを経験したであろうクロは楽曲クリア後のムービーでバイオリンと楽譜が置き去りにされた椅子の下でなんの気なしでただ座っている。

8月、落雷のストーリー/メレンゲ

 雷の持ってる特徴みたいな所を初恋みたいなものに重ねてみました。
雷って音より先に光るでしょ?、で、何秒後かにドーンって。初恋ってそんなもんじゃないかしら。
(「メレンゲ『星の出来事』 クボケンジによるセルフライナーノーツ」・WARNER MUSIC JAPAN・https://wmg.jp/merengue/discography/3070/・二〇二〇年四月二十二日リンク確認)

 メレンゲのラブソングは、幸福に包まれたものも悲哀の漂うものもどうしてこうも上手いのだろうと聴くたびに舌を巻いてしまう。アルバム『星の出来事』収録の「8月、落雷のストーリー」はアコースティックギターとピアノとシンセサイザーの音が爽やかさを醸しだしながらも、嵐の日に出ていってしまったらしい「きみ」を探すというせつない物語が繰り広げられる。驚かされるのは、一番で〈きみを探しに嵐の中を歩〉いていた「僕」が、二番では〈きみを忘れに嵐の中を歩〉いているという心情に見舞われていることだ。「きみ」を探すという目標は一曲をとおして貫かれているけれど、「僕」の胸のうちでは「きみ」との関係の終焉が、8月、という地点で訪れるものと冷静に予期されているのである。

8月の終わりのこの雨もいつか止む
きみがいなくなった僕の この気持ちさえ
それのようにどうせなくなっていく なくなっていく
(メレンゲ「8月、落雷のストーリー」)

 すべての恋愛感情は必ずしも幸福な結末を迎えるわけではない。大人になるまえに抱くような未来に繋ぎとめようのない恋愛感情、それこそクボケンジさんがライナーノーツで言っている初恋は嵐のように過ぎ去っていく。もしかしたら「僕」が歩いている〈嵐の中〉というのは、実際の嵐の中でもあり、こころのなかで嵐のように渦巻いている「きみ」に対する想いのなかを突き進んでいくことでもあるのかもしれない。そして嵐はいつか止んで、空は、街は、世界は、何事もなかったかのように晴れ渡るのだ。
 嵐といえば、Badfingerの「No matter what」には「嵐の恋」という邦題がつけられている。きみがどんなひとであろうが、なにをしようが、どこに行こうが、ぼくはきみのそばにいるしきみにすべてを捧げようという献身が垣間見られる楽曲だ。けれど、それは相手がじぶんのほうを向いていないとわかっているからそうおもうのであって、崇拝を帯びたきみへの想いは激情となり、嵐、という語を引き寄せているのだろう。

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