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日記

感情のままならなさが幾分かましになって梅雨に入る。小説を4日間で3万字近く書いたらすっかり燃え尽きてしまったのだった。なにをおもっているのかすらわからなくなってしまって、だからここ2週間くらいじぶんの時間を優先して過ごしていた(だれかのためになにかする、というのは性にあわないのでしていないつもりなのだけれど、じぶんひとりが世界にいるわけではないからどうしても他者のための時間がぽっと現れてしまう)。きょう、仕事おわりにひとりで京都駅をぷらぷらして、ひさしぶりに写真を撮って、泡のように湧きだすことばのひとつひとつに視線をむけられるようになって、だいぶ回復してきたのでまたきっちりと生活をしていく。
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〈「大丈夫よ。わたしがいなくなっても世界はありつづけるわ」〉
片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』
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大声をださない喧嘩をする冷静さは愛に等しい。なんとなく謝ってなんとなく日常に復帰してタンドリーチキンをお腹いっぱいにたべるゆるさできょうも生きてます。ぶい。
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綿矢りささんの『勝手にふるえてろ』を読みおえた。ことし何冊めの読書かは忘れてしまった。中学生のときからイチに片想いをしているヨシカがニというさして好みでもない同僚に告白されるはなし。おもいでのなかの片想いの相手への羨望やら、なんかこいつ嫌やとおもいながら告白してきた男とずるずると過ごす怠慢やら、読んでいると胃がぎゅっとひねられて喉もとが酸っぱくなるような居心地のわるさがあって、痛くて苦しい。これはおそらく恋愛というよりイチにずっと片想いをしているじぶん自身への自恋の物語であって、だからこそ自恋にがんじからめになっていたヨシカが他者であるニの介入によって解放されていく構造が美しかった。そして名前を呼ぶことがどれほど愛になるか。なんて書くと『君の名前で僕を呼んで』をおもいだしてわたしのなかの作品群にたいする愛が激しくなるので割愛する。
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怖がらず何度だって死ねばいいさ生きるみたいにどうせ満月
/のつちえこ「ある街のわたくし」

「死ねばいいさ」の6音の強さは、死ぬことにたいして背を押しているのではなくて、生きていかないことも選べるという許容だとおもう。「どうせ」という諦念ありきの優しさがほんとうの優しさなのかはわからないけれど、わたしは、まあええんとちゃうか、どうせ世界のほうはなんも変わらへんのやし、くらいの軽さだと捉えていて、生死によるしがらみから救われたようなきもちになった。
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芸能人の謹慎でテレビ番組からいるべきひとがいなくなるのを見ていると、映像は生ものではないと思い知らされる。見えやすいものだから、見たままのものが正しさにすりかえられていく。ことばのほうが、よっぽど、取り返しがきかなくて、鋭くて、だから正しくありたい。
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太陽の満つる躰のかひなから見守るだけのポイの破れ目

#日記 #nikki

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