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日記

物静かだとおもっていた社員さんはなにかと会話をしていたいほうなんでと言っていろいろな話を振ってくる。じぶんから話題を生みだすのが苦手なわたしはそれらに応答するだけ。よくないなあとおもいつつ、いくらでも黙ってしまえるから口を動かさねばと努力をして、カーオーディオから流れてくる浜崎あゆみや織田裕二やMISIAにこのひとの青春のありどころを探る。「Love Somebody」のネバネバのところは〈never never...〉とうたっているのだということをいつのまにか知っている。そうやって職場に送りとどけられて、出勤が再開した。
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ぶりの照り焼き
油たくさん 強めの中火で両面二分ずつ、皮一分(終わったら油拭く)
ふっくら焼ける うれしい
醤油ちょっと減らしていい
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鍵があいている、かけ忘れた、と焦りながら自宅に入ると夫が見覚えのないノートパソコンをひらいていて、在宅勤務になりました、とわざとらしい笑顔をむけてきた。夫が奇数日出社だからじぶんの出勤日も奇数の日にしたのに、二回目の出勤で早くも意味をなくしてへらへらしてしまう。就業ちゅうは話しかけてはいけないし、会議もある、これはなかなかの喧嘩のもとなんではなどと不安におもっていたけれど、いざ翌日の始業時間になってみるとおたがいに仕事や書きものに集中していてなにも苦ではなかった。わたしが出勤している日の昼食はテイクアウトで済ますというので、家にいるときはなるべくつくるようにしている。もともと働くことに熱心なほうではないからずっとこんな生活でいいのになあとおもう。いままでの日常、すきなことに取り組みつつやっていくにはせわしなさすぎやしませんでしたか。とはいえ、世界のがわが落ち着きを取り戻せば、元いた生活の国にまただんだんと近づいていくのだろう。布マスクの封はまだ開けていなくて、どこかにぽいと置いて以来見かけていない。
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時が解決してくれるのではなくて、時に感覚を鈍らされるのだとおもう。結婚式をするつもりだった日が過ぎてしまうと、この日やったのになあという空虚なきもちは消えてしまって、延期の影響で懇意にしていたプランナーさんが担当からはずれることになった件についても無感動でいる。賃貸仲介のホームページでいま住んでいるマンションに引っ越す段取りをつけてくれたひとの写りのわるい顔写真を見て、人生の重要な部分にほんの一瞬関わってくれるひととの別れは増えるばかりだけれど、おなじ地球にいるだけで愛だ、それだけでいい、ということをおもいだす。金木犀のにおいが漂ってきた気がしたけれど、ここは初夏の道。おふたりの大切な日に飲んでくださいと送られてきたシャンパンの宛名の字を、あのひとの字やんね、と言って、ぶり返した感情を押しこめる。大きいな、ふたりで飲みきれるかな。もう会わないかもしれないひと。
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「焼きビーフンなるものを買ってきた。キット的なやつ」
「ほう」
「——さんのおかあさんがようつくってたやつ」
「ちゃうで、あれは春雨」
「まじか」
「ビーフンってなに? 麺的なもん?」
「わたしも知らん」
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ことばはなによりも形がある、といったことを考える。ルネ・マグリットの「これはパイプではない」のようなこと、とおもうのだけれど、まだうまく書きこみきれないからこの話をするタイミングではない。前から考えていたはずのことなのだけれど、もっと、うんと踏みこんで考えないといけない気がした。
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ショッピングモールの専門店街におりていたシャッターがひらいていたので本屋さんに寄った。本屋さんはCDの品揃えがわるくなっていること以外は整然としていて、これからもどうか平和で、と祈る。靴底がすっかり薄くなっているハイカットスニーカーを買い替えたり、職場で着る半袖のポロシャツの上に着るカーディガンを調達したりせねばとおもいつつ、欲しくなるのは本やCDやおやつばかりだ。あしたは白玉をつくってコーヒーゼリーぜんざいにする。
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どろどろと黒い汚れがこびりついている排水口を見て、さすがに掃除せなあかんやつやとおもったので今朝はキッチンの掃除をした。後から起きてきた夫もわたしにつられるようにして掃除機をかけはじめて、トイレとお風呂と洗面台の掃除も済ませて、昼ごはんにカフェのテイクアウトをたべた。よく知っている土曜日の光景だった。新喜劇は名作選で、三度めの『名探偵ピカチュウ』を観て、外食には行かずに夫が夕飯をつくる。もしかして豚肉足りひん? ああ少ないかも、豚キムチにめっちゃ入れたわ。あれはめっちゃ入れなあかんからな、じゃあハムでも入れるか。きょうは——ちゃんと——ちゃんの結婚記念日ですよ。ほう、おめでとう、めでたいね。めでたいよ。焼きビーフンは小学校の給食でたべたことのある味がした。おなじ教室でおなじ給食をたべていた夫もおなじように感じていて、唐突におもいでを共有する。

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