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日記

瞬間の連なりとしての時間がほんとうに繋がっているかどうかはわからないとおもいながら生きているわけだけれど、二〇一九年五月一日に限っては時間は逆行しないのだと意識せざるをえなかった。なにがどう転ぼうが、平成という時代はもう帰ってこないのだ。わたしが生まれた時代。生を受けて大半を過ごした時代。さまざまのひとびとと出会った時代。すきなひとと出会い、じぶんなりに慈しんできた時代。これらが、過去、というより、過去完了、や、大過去、になるような寂しさが平成に降り積もったような気がする。誰もいない海の底のマリンスノウのように。平成はあなたを知らない時期があったけれど(細かくいうと平成四年から平成十五年まで、幼馴染のようなものなのだ)、令和はずっといっしょやね、ずっとずっといっしょにいようねと抱きあってみても、時代が真新しすぎてまだ実感がわかない。令和、という時間軸が身体にかちっと組みこまれる日が、やがてはやってくるのだけれど。
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ぽやぽやと過ごしているうちにピアノを習いはじめて二十年になった。いまはドビュッシーの『ベルガマスク組曲』のなかから「メヌエット」を弾いている、というか、楽譜を読みながら音をなぞっている(慢性的な練習不足でレッスンのたびに初見演奏みたいになってしまっている)。メヌエットらしくなさと難解で怪しい響きが癖になる。それから「ボヘミアン・ラプソディ」をピアノとエレクトーンのアンサンブルで。幼稚園のお遊戯会でマリンバを演奏して、マリンバを習いたいとおもっていたのがいつのまにかピアノを習うことになっていて、やめるようなきっかけもなかったのでずっと習いつづけている。それなりに弾けるせいで小学校や中学校で疎ましがられたり意地悪をされたりしたこともあったけれど、ピアノがわたしの表現欲の源であるし、たった数十年しか生きていないわたしのことを卵の薄皮のようにくるんと被膜して守ってくれたのはピアノの音だから、ずっと続けてきて正解だったとおもっている。書く人間の姿として見た目もすきなものも素敵ではないことがコンプレックスで、なんでセンスに溢れた素敵な人間になれへんのやろうとしょっちゅう悩んでいるけれど、ピアノを演奏できること、音楽の構成的な美しさに敏感に反応できることだけは自信をもてる。音楽は、わたしがわたしのままでいられる居場所なのかもしれない。少なくとも、ピアノを弾くときのわたしは大学で呼ばれていたあだ名で呼ばれることがない(そう呼ばれると、情報通できっちりしいで頼られがちな姿になるスイッチが入ってしまって肩が凝るのだ)。
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「いいですにゃあ〜」
「ともだちの口癖移っとる!」
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「永遠を駆け抜ける一瞬の僕ら」という曲で〈偉大〉に〈すき〉とい読みかたを与えたAZUKI七さんのことを天才とおもっている。
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タンデムをして背割堤に行ってきた。この世でもっともすきな場所、というと大袈裟すぎるかもしれないけれど、桜が終わったあとの初夏の姿がとてもとてもすきだ。その写真をツイッターでまいにち更新しているだいじな小説をまとめているモーメントの表紙にするくらい、だいすきだ。湿った土のにおい、葉の青いにおい、木漏れ日とその影の揺らぎ、葉擦れをともなう風の音はそこに木々があることを証明して。ひと気の少ない奥のほうまで歩いて、こいびととベンチにすわってぼんやりしていた。人通りがなくなるのを見計らってこっそりとくちびるを重ねてみたりもする。家族が増えても来たいね。せやなあ。だいぶまえに、ゲームのタイトルをなぞって「赤ちゃんはどこからくるの?」と母に質問して、ううん難しいなあ、受精した瞬間?卵子ができた瞬間?どの時点で赤ちゃんは赤ちゃんなん?とふたりで妙な沼に足をつっこんであたまを抱えた。〈どうせ永久には寄り添えない〉。〈時間は意外と少ない〉。なにか糸を引いて垂れ下がってきた、というか落ちてきたというか、木からぶらさがっている芋虫のようなものが風に煽られるのを観察して、落ちたほうがはやいのに上を目指そうとする動きからふと目を離したらいなくなっている。淀川は緩やかすぎて流れが止まっているようにみえた。
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「待ってえ〜!」
「うーわ、真似しはる」
「ユン坊の真似やで?」
「ユン坊の真似ってわかってたん?」
「さいしょはわからんかったけど言われて気づいた」
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くずはモールでお茶をしてから、いまごろ落ち着いてるんかなあと想像しながらだいすきな後輩の引っ越し祝いと結婚祝いを考えつつぷらぷらして、とりあえずメッセージカードだけは買って、風のつよい夕方をバイクで突き抜けて帰宅した。LINEで引っ越しのことをちょくちょく聞いていると、じぶんたちが引っ越してきたきょねんの七月六日までのできごとを彼女の現在と重ねあわせるようにしておもいだす。内見のたびに物件仲介のお兄さんと息をころしてこいびとの評価を待ったこと。そのお兄さんの物語みたいな人生と、すごくすきだったこと、胸ポケットにウィンストンが入っていたこと、また会えたら嬉しいだろうなということ。あたらしい家が決まった日に京都タワーの地下でたべたラーメンがとても美味しかったこと。母がこれまでにもらった誕生日や入学卒業のお祝いをすべて貯金してくれていたこと。父が手紙をくれたこと。週末にヨドバシカメラとニトリに通いつめたこと。関西では滅多にない地震があったこと。ドラム式洗濯機が入らなくて、冷蔵庫の扉の開閉がキッチンの位置に対して逆だったこと。そのころやっていたデレステのイベントが「銀のイルカと熱い風」だったこと。歴史に残るような豪雨のなかで、こいびととともだちと三人で濡れ鼠になってあたらしい家にやってきたこと。こいびとのおかあさんに目のしたのクマがひどいと言われたこと。こいびとの妹が二台ならべたシングルベッドや三人がけのソファに飛びこみたがったこと。それらのおもいでを、インスタグラムのモーメント以外ではいままで書いてこなかったこと。後輩の彼氏さんと仲良くなれるといいね。同業者はちょっと。渋んなや。彼氏さん、と彼氏ではなく必ずさんづけで呼ぶ後輩は、結婚したら彼のことをなんと呼ぶのだろうか。旦那さん、だろうか。わたしは属性としての名前でひとを呼ぶのが苦手だから(こいびと、という書きかたも一億歩ほどゆずっている)、今度ふたりで遊びにきてもらったときになにか呼びかたを考える。
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「けっきょくどこいくの?」
「ううん、どっちにしよ……せやなあ、ううんと? 美山にするか」
「うん」

#日記 #nikki

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