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日記

「——さんが物を捨てるっていう感情持ってて感動した」
「はは、なにそれ」
「だって服ぼろぼろになってもずっと着てるやん。下手したら小学校のときに着てた服着てるやろ。見覚えあるからな?」
「せやで」
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ことばに落としこんでしまうにはまだまだ現在進行形で、感情的すぎて、うまく書きたいわけではないのだけれどずっと書きあぐねるようにして考えてきたことが、たったの一か月の時間経過で、世界にとっては遠い日の記憶になってしまいそうになっているのを目の当たりにしている。住んでいる場所の近く、近くといっても七キロくらい離れているけれど、そこでひとが燃やされてたくさん死んだこと。ツイッターのトレンド欄を更新しても死者数は誤報にならなくて、十人から十五人、十五人から二十人、二十人から三十四人、三十四人から三十五人に増えていったこと。七キロ先の三十五人の死は悲しむくせに、どこかの国の刑務所で五十人以上のひとびとが死んでもなにもおもえなかったこと。この件には、令和史上最悪の、ではなく、平成以降最悪の、という枕言葉がつけられるということ。理性をふっと手放す瞬間や、一年後に目ざめて、けれどもそのひとにとってはきのうの罪を問われる時間の歪さなんかを想像して・想像することしかできなくて・想像で済ませてしまいそうになっていて、人間には感情があるのだ、かなしいという感情から身を守るために法律があって、ひとを殺してはいけなくて、だれかを愛するときはそのたったひとりを愛さなければならない、なんて、真理めきながら平板である事実に着地してしまう。いまの時点で言い切ることができるのは、どうやらわたしはそのひとの感情による物語に懐柔されて、その場所が燃やされない世界線に降りたつことができなかったということだけだ。そして、その日以前の美しいおもいでの数々がけぶり、時間は断絶して、ふっとみえなくなってしまったような気がした。
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平野啓一郎さんの『マチネの終わりに』を読み終えた。十七冊めの読書。ギタリストの蒔野とジャーナリストの洋子が国や関係性を飛び越えて愛しあうはなし。読了から時間があいてしまってじぶんの考えごとに収束させてしまっていたり、結婚とかテロとか、それらがたまたま近しいものであるタイミングで読んでしまってあまり冷静に読解できていないかもしれない(いつもは冷静に読解しているのかといわれるとそうでもないけれど)。運命、について考えた。たったひとつの要因が欠けて/ずれてしまえば、愛にむかっていたふたりが結ばれることはない。けれどもそれは現在から未来を見上げているからそうおもうのであって、ほんとうは未来のほうが過去完了的にすでに定まっていて、現在にいるこちらがわが未来に選びとられているのではないかといったこと。それから、愛、についても考えた。愛において他者にわかりやすい最上のハッピーエンドが結婚という形式めいたものだとしても、恋愛感情は関係なく、大事なひとがおなじ星、おなじ地球で生きている、それだけで充足されるような静かで穏やかな愛を、蒔野と洋子は手に入れたのではないかとわたしはおもいたい。そして三谷には助演女優賞を与えたい。やってはならないことを意識的にやる、理性的な理性の放棄にわたしは覚えがあって、だからこそこのひとに石を投げることができない。蒔野、福山雅治さんかあ、となんとなくぼんやりとしたきもちになる。
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と書いて、文章を直しているうちに一週間が経過してしまった。お盆休みはどうやって生きていたのかわからなくなるくらいにスーパーマリオオデッセイをプレイしていた。月の裏で帽子とバイクを剥奪されたマリオにわたしはパワームーンをとらせてやることができない。もともとそこまで器用じゃないんだ。
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ほかにも読みおえた本や観にいった映画があるのでまたの機会に書きつける。
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「本籍、ほんまに——町やった。お揃い」
「けど番地は違うやろ?」
「そらな」
「これからはぜんぶいっしょになるんやで」

#日記 #nikki

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