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日記

きょねんの五月二十七日、そのひとはわたしと暮らすことを決意して、だからわたしにとっても決断の日で、きのうはあたらしい名前を堂々と名乗る勇気をようやっと奮いたたせたのだった(と、五月二十八日に書いた)。なにかを決めるたびに早まったことをしたかなあとふつふつと湧きあがる不安に足をとられそうになるけれど、大丈夫だ、とおもった。わたしは、わたしが大事にしたいものをぜんぶ連れていくし、そのうえであたらしいものが見えてきたらいいなあとおもう。
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あたらしい料理本を買った。『和のおかず』という和食の本。和食の本は難しそうとなんとなくおもっていて避けていたのだけれど、レシピの読解力があがっていることを信じて買ってみることにしたのだった。ざっと目をとおしてみてすでに面白いなあとおもっているのだけれど、実践してみてお気に入りの本になるといいな(いまのお気に入りは『料理のきほん練習帳』と『白飯最高おかず』だ)。いつだったか、りんごケーキが上手につくれるこいびとのことを魔法つかいのようにおもう、実際は魔法つかいではなくって分量や手順をきちんと守っているていねいなひとなのだった、といったエッセイをまえにやっていたブログで書いたことがあるけれど、いまは逆で、ひとつひとつの手順を守って食材を調理していくのは魔法を組みたてているみたいで楽しいなとおもう。手間をかけることによって仕事なんかでささくれたこころが洗われていくような気さえしているし、西京焼きをつくるのに鮭を味噌に漬けていたときは家に帰って調理するのが楽しみで仕方がなくて、たぶん生きていくことに救われていた。いまはのちの夕飯用に鶏もも肉を玉ねぎおろしに漬けている。
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「(蜘蛛なんかつけて)どんな森に行ってきたんや?」
「しいて言うならゲーセンに行った」
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京都芸術花火を観にいった。仕事終わりに駅でこいびとと待ちあわせをして、とびきりのデートみたいだなとおもった。ずっと会えずにいて、どきどきしながら時計を何度も確認して、やがてやってきた相手の顔をひさしぶりに見て懐かしく、ほっとするような。会場は全席指定だったおかげなのかいままでに行った花火大会のなかで群を抜いて運営や誘導がスムーズで、夜は寒いくらいに涼しかった。花火は高音を引きずりながら遠ざかって、ばんとひらく、雨のような音を降らせてきらきらと散る、その繰り返し、けれどもう、二度とおなじ花火は見られない。DAOKO×米津玄師の「打ち上げ花火」にあわせて正面をむいた花火と横をむいた花火があがって、あの映画のひとびとのことをおもったら泣けてきて、観たときはifがむかう願いに近い正しさがどこに行きたがっているのかわからなくて困惑するばかりだったけれど、いまおもえばいい映画だったんじゃないかと手触りのいい綺麗な記憶にすりかえてしまいそうになる。こいびとは花火の撮影に夢中で、手をとることもできなくて、寒いのを理由にしてうんと肩をくっつける。
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というか、すきなひとがたべるものに手を抜きたくないだけなのだ。
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エマ・クラインの『ザ・ガールズ』を読みおえた。十五冊め。居場所がないようなきもちでいるイーヴィーが、ある日公園で出会ったスザンヌに魅せられて農場(ランチ、野営場のようなところ)でのできごとに傾倒したり現実に戻ったりする。実際に起こった殺人事件を下敷きにしているというのを知っていて読んでいたのだけれど、その事件が起こったのはさいごの五十ページで、それもあっさりと書かれていて、どうやらこの小説が言いたいのは事件の部分ではないのだなと気がつく。だれかの視界に入っているということ。おんなのこだから、というくくりはちいさすぎて、いまの世のなかでは流行らないかもしれないけれど、おんなのこだから、背伸びをして、微笑んで、あなたに気に入られるにはどうすればいいのかとくるくると考えつづけるのだ。すくなくともわたしはそうだ。
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コーマック・マッカーシーのまえにちょっと日本の小説読ましてよ、というきもちになって最果タヒさんの小説を買おうおもったらなくて、綿矢りささんの『勝手にふるえてろ』を買った。
https://twitter.com/_7_2_3_5_/status/1135842927450546176?s=21

#日記 #nikki

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