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花弁の迷宮、祝祭と反抗のバラ色 ― 川口隆夫『バラ色ダンス 純粋性愛批判』(よるの木木)

メンバーによる展覧会や映画などのレビューを掲載する企画。第6回はよるの木々による、昨年2023年夏に上演された川口隆夫『バラ色ダンス 純粋性愛批判』のレビューです。(編集部より)

トップ写真:『バラ色ダンス 純粋性愛批判』序章(2022)Ⓒbozzo



 なにかを「変」だと名指した瞬間、「変じゃないもの」も想定される。なにかを「ふつう」だと思うなら、同時に「そこから外れたもの」が暗示される。それら「変」「変じゃない」の対はいったりきたり、その場・その時・その空間で、膜のように容易にうつろう仮初だ。たとえばステージ上の「異」は、日常で感じる「異」とはちがい、それがどれだけカオスであっても観客にとってはときに「ふつう」である。ステージにはステージの規範、日常には日常の規範……と、わたしたちを幾重にもつつむその場・その文脈の規範のヴェールは、まるで何重にもかさなる花弁になって、わたしたちの足取りを「ダンス」にする。

暗黒とバラ色

 劇場に入れば、チョコ銀紙をやぶいたようなきらきら輝く空間に、ぱりぱり音をたてて落ちるアイシングシュガーと、背中に咲く椿のつぼみ。サーカスのような艶めく世界のぬかるみに、膝まで腰まで浸かっていけば、それらファンタジックな輝きたちが、急に様相を変えはじめる。ぱらぱら落ちるのは甘い砂糖のかけらなんかではなく、痛々しく人間の皮膚から剥離する石膏の欠片で、背をきらびやかに彩るのは、曼荼羅然と鎮座まします巨大陰部の細密画だ。

 本作は、暗黒舞踏の創始者である土方巽が1965年に公演した「バラ色ダンス」の断片記録から着想を得て制作された。披露されるのは、過剰が魅惑するパフォーマンスから、ランウェイショーに即売会、観客を招いた怪しげなティーパーティに大縄跳び大会まで。めくるめくナンセンスがバラの花弁のように内と外、表と裏を混乱させて観客を呑みこんでいく。
 初演から約50年を経て、現代の「バラ色ダンス」に塗りかえたのは、川口隆夫率いる多彩な面々である。ダムタイプのメンバーや東京国際レズビアン&ゲイ映画祭のディレクターなどの経歴をもち、幅広いダンス・パフォーマンスを展開してきた川口は近年、舞踏家の故・大野一雄の動きを完全コピーした力作『大野一雄について』をはじめとして、時代越境的な試みをくりひろげてきた[1]。「暗黒」と冠されるほどに「暗さ」と親密な舞踏において、「バラ色」と名の付くこの原作には、いわゆるその暗さが象徴的な暗黒舞踏とは、ちがう方向性があったという[2]。
 たしかに、老若男女のメンバーや、ゲストダンサー・パフォーマー(一日目:小倉笑、二日目:デカルコ・マリィ、大木裕介)は、個性が際立ち華やかだ。登場する幾人かを挙げてみれば、まずは一度見たら忘れがたい、赤くテラテラとひかるビニールテープで顔面からつま先までぴったりと型どられるほど隙間なく巻かれた、四足歩行の「赤ビニ男」(三好彼流)。バタフライのような化粧をまとうコケティッシュな「ブリーフ青年」(藤田真之助)。口のようにひらく恐ろし気な女陰を背負う蜘蛛女(川村美紀子)。フリルドレス×ブリーフでめかした蓬髪の爺(三浦一壮)。ドレスアップ爺から茶会の支配人、石膏人間へとつぎつぎ姿を変じる者まで(川口隆夫)。「老/若/男/女」の概念を宿す種々のシンボルは猥雑に交錯し、挑発的でポップな意匠へと昇華する。けれどその色は暗黒からまっすぐ反対を指す「光に向かうあかるいバラ色」ではない。そこには夜気を吸って色を変じる微妙な「バラ色」が入り混じる。

表皮と花弁の迷宮ダンス

 公演中、幾度も変奏しながら現れるのは「さらされにいく」身体だ。
 赤ビニ男が自身の赤ビニ皮膚に乱暴にこすりつけるごつごつした巨岩。痛みも孕むそのシーンが引き起こすのは、「皮膚」としてみえていた赤ビニの内側から露になる、あらたな「皮膚」という混乱だ。爬虫類めいた赤ビニを表皮とみれば、その下のしろい皮膚が、内側の肉として浮かびあがるし、一転、露わになった皮膚こそを表皮とみれば、ぴったりと一体化する赤ビニ面のほうが、身体を覆う「衣装」として浮上してくる。皮の内側を想起させる血肉の赤と、外側を包むテープの赤の類似も混乱を増長させ、内/外の境界がどこなのかが不明になっていく。
 その混乱は他シーンへと群生花のように伝播する。たとえば、顔面がラップでぐるぐる巻きになったラップ顔の人間。塗りたくられた石膏で皮膚がぱりぱりになった人間。そのラップや石膏は、外の皮なのか、内の肉なのか、はたまた加飾の衣装なのか。そう認識がゆらいでいけばいくほど、脱げ転がしてはまた履く蜘蛛女のハイヒールや、爺の着込む大仰なドレス、今にも首から落下しそうなほど巨大なおばけ頭、そして顔面に緻密にほどこされる蠱惑的な化粧までが、その者の存在をあいまいに眩ませる花弁のヴェールのように現れなおす。めくるめく膜や皮の曼陀羅は、かれらを明確な内と外を持つ個体としてではなく、いくらめくっても中心に行きつかない花弁の重なりに姿をくらませてしまう。
 そこから浮かびあがる「バラ色」は、痛みも孕む肉の赤、いくらめくっても中心のない花弁の赤が暗示する、生々しい迷宮としてのバラ色だ。

 そんな木の年輪とも玉ねぎの皮ともちがう、複雑に重なりあう構造をもつバラ花弁の迷宮でくりひろげられるのは彷徨いのステップである。冒頭から爬虫類のように現れ観客の目を引く赤ビニ男は、途中からビニ皮をやぶり人間の頭部を露にする。ジャンパーを上から羽織り「赤ビニ男」を貫徹しないその中途のありようは、ラストの石膏人間たちにも重なっていく。防護服の一団から浴びせられる、まっしろな液体はたちまちに裸体からはがれおち、そこに佇んでいるのは剥離物にまみれたまだらな人間だ。その、なにかに接近しつつも同一化せず、剥がれたりめくれたりする途次の様子は、その動き自体が行きつ戻りつのステップとなり、作品全体で躍動する「バラ色ダンス」へとつながっていく。
 さらに、赤ビニ男の腹裂きや、人間の石膏化、鬼気迫るソロパフォーマンスの白眉は、カタルシスやクライマックスを迎えない。毎度直前で余韻を切るように勃発する、大縄跳び大会やランウェイショーは、場の高ぶりを終着へと落ちつかせず、いったりきたりのステップへと強制的に押し返すのだ。往還の動き自体が何枚もの花弁となって、いくらめくっても中心に辿りつかない――中心のない、ひとつの世界=バラを形成するのだ。

変身可能性としての「老い」

 バラの花弁めく世界のなかで、ホログラムのように煌めくのは、横溢する性のイメージだ。しかしそれらを差しおいてひときわ印象的に浮かびあがるのが「老い」と、ひとまずは仮留めしておきたい凄みのある力である。それは幾度もモチーフとして現れる「皮」との葛藤の先へと突破する可能性として浮かびあがる。
 「老い」と言っても「若さ」の対置ではない、年月を経ることで得る未知への変身可能性だ[3]。たとえば、猫が長年生き延びて猫又になることや、日用品が月日を経て付喪神としての霊性をもつこと、またはオタマジャクシが変態によりまったくちがう形に生まれ直すことと近いだろうか。さまざまな「皮」と葛藤し、未知への可能性を体現する俳優の身体のリアリティは、彷徨いの動きこそをエンジンにして別様の美学を醸成する。そこに、変身・生成への時間の経過を意味に持つ、「老い」が宿す力がある。
 ゆえに忘れられないのが、ゲストダンサー、デカルコ・マリイによる舞だ。70代を越え、その白塗りのいでたちや立ち居振る舞いから、性も年齢も人間の枠すらも越境したかのようなマリィが、ほかの賑やかかつ、ときにマゾヒスティックなパフォーマンスとは異なる、しずしずとバラ一輪と舞う寡黙な姿はどこか慈愛に満ち、葛藤の姿にバラを供えるかのようだった[4]。

 鬼気迫るナンセンス劇場は、現代の写し鏡だ。迷宮のような日々の惑いをダンスに転じ、「皮」にたいする葛藤や執着を美学へと変える力には、暗黒舞踏から継承される反転の矜持が響く。バラ色ダンスの「バラ色」には、痛みを伴う肉の色、迷宮を生む花弁の色だけでなく、わたしたちをとり囲んでいる規範の膜に迎合せずに、マジックのように反転を企む、反抗-レジスタンスの色も織りこまれているのだろう。

[1]次を参照。「アーティスト・インタビュー 自らの肉体をさらけ出し、ミクストメディア・アートに挑む川口隆夫の歩み」https://performingarts.jpf.go.jp/J/art_interview/0708/1.html
[2]次を参照。呉宮百合香「《バラ色ダンス》についてのノート」
https://rohmtheatrekyoto.jp/archives/column_barairodance_kuremiya/

[3]上演時、激しい踊りを繰り広げ場を圧倒させた三浦一荘は80歳を越えている。
また、老いは、踊る主体になるだけでなく、年齢にかかわらず踊ることのできる対象ともなる。また、土方巽が自身の舞踏において公に多く言及した「衰弱体」も、病んだり老いた体自体を表したものではないようだ。次を参照。貫成人「老いと舞踊の哲学──絶対的他者としての老者の舞」中島那奈子、外山紀久子編著『老いと踊り』勁草書房、2019年、p.70。國吉和子「大野慶人のレクチャー・パフォーマンス《命の姿》について──「老い」と舞踏はどこで出会う?」『老いと踊り』前掲書、p.326。
[4]慈愛や祝賀を感じさせる老いは、能の翁舞をも想起させた。能と暗黒舞踏のつながりについて、以下で指摘されている。鎌田東二「日本の神話と儀礼における翁童身体と舞踊」『老いと踊り』前掲書、p.270。


公演情報

「バラ色ダンス 純粋性愛批判」
ロームシアター京都 ノースホール
2023年8月26日(土)~ 8月27日(日)
構成・演出:川口隆夫
振付:川口隆夫
出演:三浦一壮、川村美紀子、藤田真之助、三好彼流、川口隆夫
音楽:梅原徹、小野龍一、松丸契

執筆者プロフィール

よるの木木 yorunokigi
詩作。KYOTO EXPERIMENT 2021 SPRING批評プロジェクトにて、ウィチャヤ・アータマート/For What Theatre『父の歌 (5月の3日間)』劇評「「父、掘り返す、焼く」「灰を流すまで許さない」——「役」から降りてまなざすこと——」が最終選出(「よるのふね」名義)。論集『5,17,32,93,203,204』に、「まばたき、谺、手紙――小田香『鉱 ARAGANE』、『セノーテ』、『ノイズが言うには』、『あの優しさへ』review」を寄稿。浄土複合ライティング・スクール三期生。

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