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自己肯定なんかできるわけがなかった

「自己肯定感」という言葉は高校生の時に知った。

意味は読んで字のごとく、自分を肯定的に受け入れること。

正直あまりピンと来ない。空想のような気すらする。
もっと言えば「自分を好きな人なんているんだ」というのが率直な感想だった。

おとぎ話じゃなかった

その後幾度となくその言葉を耳にしてきたし、目の当たりにしてきた。

「自分を認めよう」
「もっと自信持ちなよ」
「自分を大切にできない人が他人に優しくできるわけがない」

全部正しかった。
でもどうしたら自分を受け入れられるのかさっぱり分からない。

私は中学の不登校を引きずり高校も休みがちだった。
志望校だったくせに。部活をやりたいから選んだくせに。自分で決めたくせに。
前日まで元気にしていても、朝突然ベッドから起き上がれなくなるのだ。
理由は自分でも分からなかった。ただ、自分のせいであらゆる人に迷惑がかかっていることは自覚していた。
そんな自分好きになれるわけがない。開き直りもいいとこだ。

それなら行動を変えれば解決する。毎朝きちんと起き上がればいいんだ。
頭では理解していても、身体は鉛の下敷きになったように重く動いてくれなかった。

「こんなの甘えだ、なんで皆と同じようにできないんだ」

枕に突っ伏しながら同級生を思い浮かべた。
いつも笑顔でその場の雰囲気が明るくなるような、キラキラした人。何人もいた。
同じ年齢で同じ部活で同じ活動をしているはずなのにこの違いは何なんだろう。

「ああ、これが自己肯定か」

16歳の私は悟った。
ぼやけていた言葉の輪郭に触れた。

ところが鉛はどいてくれるわけでもなく、むしろいっそう重さを増してのしかかる。
余計に呼吸がしにくくなった。
その日も学校に行けなかった。

矢印の向き

中学生の私は周りの環境や人に、常に怒りを持ち続けていたと思う。
聞こえるように悪口を言う人や私の気持ちを否定する大人たちがおかしい、こんなところにはいたくない。いつも考えていた。

やがて高校に上がると、部活の先輩や同級生たちは優しく、クラスメイトもみんな良い人たちばかりで毎日が充実していた。周囲に怒りを持つことも極端に減った。

がらりと変わった環境で浮き彫りになったのは、なにひとつ人並みにできない自分だ。

中学からやっていた楽器は全く上手くない。入部してすぐ始まったよさこいも断トツで覚えが悪く、足を引っ張ってばかりだ。
マーチングではコンテが全く読めないし位置も覚えられない、綺麗に歩けない。
もちろん周りにも高校から楽器やマーチングを始めた人はいた。でもその中でも自分がいちばんできていないように感じる。
加えて、電池が切れたように動けない日がある。ただでさえ遅れているのに。

私はダメな人間だ。
避け続けていた思いを言語化したとき、腑に落ちてしまった。

きっと今までの私は周りにいた人たちが嫌いだったのではなく、何もできない自分のことが嫌いだったんだ。
それを認めたくなくて、どうにか他人に押しつけることで心のバランスを保とうとしていた。そして新しい環境で行き場を失った怒りたちはいつの間にか自分の方を向き、大きな劣等感となって押し寄せてきた。

時が経つにつれ膨れ上がった感情は次第に制御できなくなっていき、散々色んな人を不快にさせたり傷つけてしまった。
見かねた顧問の先生に「負のオーラを出すな」と叱られたときにやっと自覚した。
「どうにかしないといけない」

それからどうにか、自分をコントロールしようと努めた。
嫌なことがあったらノートに気持ちを書き連ねて整理したり、友人に話を聞いてもらったり、疲れていても明るく笑顔でいようとした。
他の同級生たちのようになりたいと心のどこかで思いながら。

振り返ればどれもひどく不格好だったと思う。
動けない日も減ることはなく、結局制御できないことのほうが圧倒的に多かった。
それでも、自分の欠点を理解して改善しようとしたのは私の中で大きな成長だったと思う。
多くの人にたくさん叱られ、たくさん支えていただいた。

私はそのまま高校を卒業した。卒業式が終わったあと、教室で担任の先生が「贈る言葉」をアカペラで歌ってくれた。大笑いしながら少し泣いた。
自分ひとりでは学校生活も部活も3年間続けられなかった。本当に恵まれた高校生活だったと今も思う。

またあんたか

卒業してから念願の陸上観戦に足を運ぶようになり、程なくしてカメラも始めた。
恐れ多くも競技場で声をかけていただくことが増え、お友達もできた。
私は変わった。変わったつもりでいた。
でも1人になると考えてしまうことがある。

「私は人の真似をしていただけで、中身は結局空っぽのままなんじゃないか」

写真やSNSを通して私を知ってくださる方が増える一方、「しおりさん」と自分との乖離は強くなっている気がした。あなたの写真や文章が好きと言っていただいても私自身のことではないとどこかで感じてしまう。

もちろんSNSに思っていることを全て載せているわけではないので、現実の私とギャップがあって当然だと思う。
だが素直に受け止められないことは褒めてくださった方にとても失礼だし直したかった。

「また自己肯定だ」
ぶつかったのは数年前と同じ壁。
誰かと比べる必要のないことをしていても、心は自分を認めるとは程遠いところにいた。
やっぱり空っぽじゃん、と思った。

前向きに後ろ向き

その後数年間、私の自己肯定ゲージは横ばいのまま今に至る。それも低い水準のまま。
でもひとつ、考え方を大きく変えた出来事があった。

友人の「しおりちゃんの卑屈なところも好きだよ」という言葉だ。

言われた時、すぐに返事が出来ないくらいびっくりしてしまった。
私のマイナスな考え方をそのまま受け入れてくれた人に初めて出会ったからだ。

「多分かなり生きにくいと思うし改善した方が良いところもあるとは思うけど、私はその卑屈さが人間らしくて好き」

生まれて初めて、もしかしてこのままでいいのかもしれないと思った。

世間には相変わらず自己肯定という言葉が溢れている。むしろ私が初めて知った頃よりたくさん目にするようになったかもしれない。

「自己肯定感を高めて人生を豊かにしましょう!」

そんな言葉を見る度に焦って、キラキラした人たちと自分を比べて惨めになっていく。
実際私は友人にあの言葉をかけてもらうまでずっと切羽詰まっていたように思う。
自己肯定の4文字に追いかけられ、お前の考え方は間違いだと叫ばれているような。

でも今の私には心から楽しめる写真や陸上観戦という生きがいがあって、周りには私の発信を好きだと言ってくれる人がいる。
私の生きにくさに共感をしてくれる人がいる。

それってもう十分に豊かな人生じゃないか。

また、自己肯定について色々調べた結果「幼少期に身につかなければ一生得られない」という答えに辿りついた。
きっと例外もたくさんあるけれど、そりゃ私には到底無理だ! 最初からできるわけがなかった!
あれだけ悩んだ割に案外簡単に諦めがついたのがちょっと面白かった。

「じゃあもうこのままでいいじゃん」

自己肯定をできない自分を肯定したら、身体の上の鉛がチタン合金くらいにはなった。

自分の感性が以前より好きだ。写真を褒めてくださる人も、上手い下手ではなくどこかで共感してくださってるのかもしれないと思うとまっすぐ受け止められる。
何よりご自分の時間を使って私のつくったものを見てくださること、感想をいただけることは本当に有難いと改めて感じた。

相変わらず自分自身のことは好きになれないし社会に適応していくには課題が山積みだ。

でもこれが私らしい。

私は今日も前向きに卑屈なまま生きていく。
これでいいのだ、まる。

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