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涙の度数ってこういうことを言うのかもしれない

 寝る前にちょっとだけ本を読んでからにしようとおもって読みかけのものを続けて読んでいたら、賽の河原という言葉が書いてあった。そうしたら急に、ちょうど1年くらい前のことを思いだした。

 雲仙という土地に行って、山にのぼって、温泉に入った日があった。そこの神社で出合ったいくつかのものごとについて、そのあとの振り返りの会話に賽の河原の話題が出たのだった。

 もう寝ようとしていたことだし、超個人的なことであるため詳しいことは書かないけれど、あの時期に、思いもよらないほどのスケールの救済が、私の身に起こった。あの体験は、言い表したり、人に伝えることなどとうていできないような、大いなるものだった。

 親不孝をした子どもの魂、三途の川を渡ることはできず、積み上げた塔は完成を前に鬼に壊される。また積み上げる。壊される。その繰り返し。
 鬼は、それの破壊のときにすっかり壊してしまうことなく、少しだけ残しておかれるらしい。そこのきっかけからまた、こつこつ積み上げることになる。

 私たちの生もそんなふうかもしれない。色んなことがあって、くじけたり、ぱったり倒れたりしながら、むくっと起き上がって拾い上げて積み重ねて。

 なぜか知らないけれど、が詰まったこの世の日々と、そこで体験する日々のあれこれ、そしてそれらと分かちがたい運命や宿命のことをちょっとだけおもった。おもったところで何と言うつもりはなくて、ただそのことをおもった。

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今日の「おっちょこちょい」:窓を閉めるとき、はかり損ねて自分の手を挟んでしまってとても痛い思いをしました。距離感ってむずかしい。

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