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長崎と聖アウグスチノ会に関する短い文章

 日本に聖アウグスチノ会が入ったのは1584年、信徒眼1万人を擁する小教区を持っていたそうであります。
 1612年には、眼鏡橋のすぐそば、歩いて2分ほどの場所に同修道会の本部教会が建立されていますが、1614年には毀されてしまいました。
 教会の建っていたという常盤橋のたもとには、「サン・アウグスティン教会跡」という石碑が建てられています。

 それから300年以上経って、ちょっとした偶然から長崎市の城山小教区を担当するようになったのは、1952年のことだったそうです。アメリカから聖アウグスチノ会の司祭トーマス・パーセル神父を含む3名が来崎し、準備をととのえ、浦上小教区から独立した城山小教区を設立しています。

 これは当時の長崎司教と、戦後来崎した外国人神父とのちょっとした会話から、アメリカ・ヴィラノヴァの同修道会へと伝えられ、再宣教のきっかけとなったのだそう。当時の長崎司教というのは前回の記事に少し書いた、山口愛次郎司教です(その後長崎大司教)。
 このときの縁から、山口司教は聖アウグスチノ修道会ヴィラノヴァ大学の名誉博士号を授与されることとなり、原爆で倒壊した浦上天主堂再建のための募金活動の際にも色々と支援をうけたのだそうです。

 禁教令後のキリスト教迫害では、聖アウグスチノ会の修道士たちも多くその迫害をうけ、殉教者を出しています。

 殉教者の中には金鍔次兵衛神父も含まれており、次兵衛神父が潜伏していた外海そとめの次兵衛岩洞窟には数回訪れたことがあります。
 とても山深い場所で、行き来すると4、5時間はかかります。水の流れる沢のそばを、足を滑らせないようそろそろと進む、そんな場所です。

 私はそこへは、よくお世話になっているTKさんの案内で登ったのでしたが、TKさんはご高齢のため、2020年を最後に行くことが困難になりました。
 その土地は信徒の一人が山を買いとって場所を探すところから始め、特定をし、のちに長崎大司教区に寄進されています。
 人が立ち入らないとすぐに荒れてしまう山中であることや、登拝の案内をする人がいなくなることなどを心苦しくおもうTKさんは、人を通じて、長崎で唯一の聖アウグスチノ会・城山小教区にあとを引き継いでもらうよう相談をもちかけました。
 引き継ぎにあたっては数回やりとりがおこなわれたそうですが、結局この話は立ち消えになってしまった模様です。残念なことです。

 ところでこの城山教会というのは、当時大浦天主堂の修復工事に携わっていた文部技官が設計をしたそうです。城山教会を訪問したことはないので検索をしてみたんですが、なかなか独創的な教会でしたよ。

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今日の「客船」:今日はまたずいぶん外国人観光客が多いなあとおもったら、大型客船(ダイヤモンド・プリンセス)が入港していたんですね。文房具店で子どものようにはしゃぐ外国人がほほえましかったです。
それにしても、国内外の観光客があちこちにいて、これには閉口しちゃいます。

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