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鳩の心意気、私の理想

 ついやってしまうことのひとつに人間観察があるんだけれど、どうぶつでもやってしまうことがある。Kさんと会話していて、その様子を話したらポカンとされた事柄と、自分の姿が重なったことでも書いてみる。

 ムクドリや鳩といった、小鳥に比してもっとサイズの大きな鳥が木の枝にとまっている。彼(彼女)らは枝の先のほうの実だか何だかが欲しくてどんどん枝の細いほうに移動していくことがあって、だけど枝の先というのは彼(彼女)らの重量を受けとめるには頼りない。したがって枝がしなって、安定感がない。
 それでも彼(彼女)らは自分のいける限界と欲望のぎりぎりのせめぎ合いのところで試みをする。枝がしなって足元を、身体をぐらぐらさせながら、羽ばたきや体重移動で堪えている彼(彼女)らを見ていると、その様子が何とも笑えてくる。
 笑えてくるのは、彼(彼女)らの表情がどうにもすましているふうに見えるからだ。「ちょっとぐらぐらしてるけど全然平気ですよ」「焦ったりしてませんよ」みたいな顔に見えて仕方がない。ほんとうは般若のような表情になって冷や汗かいてるくらいのくせに、涼しい顔をしているのが可笑しくてたまらない。それをKさんに話したら実に呆れた顔をされた。

 彼(彼女)らは、もしかしたらこうおもっているのではないか。「スズメやメジロにできることは自分にもできる(おんなじ鳥だし)」と。

 でもそれは思い違いなのであって、残念ながらできないこともある(反対にスズメやメジロには無理で、ムクドリや鳩にしかできないこともある)。

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 前回の記事にちょっと留守にすると書いて、今日戻ってきた。この旅の出先で、ある廃墟に出合った。巨人の大きな足で踏みつぶされたみたいに建物がめしゃめしゃに崩れていて、木々に覆われて誰も来ない、そんな場所だった。
 Kさんも私もカメラを手にしていて、しばらくそこを動きまわって写真を撮ったりしたのだけれど、Kさんが足をふみいれた場所に私も行ってみたくなり、ちょっと危ないかなと思いながらヨイヨイと伝っていっていたら、それに気づいたKさんから、危ないからやめなさいと言われてしまった。
 そこでハッと、ぐらぐらの鳩(あるいはムクドリ)の姿が頭に浮かんで、自分の姿と重なった。そう、私は「Kさんにできることは自分にもできる(おんなじ人間だし)」とおもって行動してしまっていたのである。それは思い違いであって、ともすると危険を招く場合もある行為だったのである。

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 実際にムクドリや鳩なんかが何をどう考えているかなんて知りようもないけれど、私はこのようにかなりどうでもいいようなことについて、日々あれこれ考えてしまう。
 そしてさらに書くと、もしムクドリや鳩が彼(彼女)らの、自身の可能性におけるせめぎ合いの結果、その試みを達成できたとき、内心「どうだ!」という気もちになってえへん顔をしているかもしれない、とかも考えて心の中でニヤニヤしている。でもそれって尊いね、とか。

 誰かの姿を追いかけることだけに終始してしまっては、成長に至ることは少ないだろうけれど、憧れや尊敬を感じられる存在に出合え、そこから理想を形づくる要素が得られることは人生における幸福のひとつといって差し支えないとおもう。
 鳩の姿を見て笑ってるだけでなく、私だっていまは無理とおもえることでも、そしてたとえやっぱり無理だったとしても、試みることをやめないとか、できたらうれしいことに対し前のめりになる心もちは失わないようにしようとおもった。痛いめをみたらそのときはそのときであろう。

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今日の「写真」:トップ画像は、ごく最近の鳩ぐらぐら現場です。ただでさえしなしなの柳の枝で歯を食いしばって前後左右にぐらぐらしていた野鳩。
・・・旅をして写真を撮るのはたのしいことで、だけれども自分に不足している色んな部分に気づくところもあって、心が乱れます。  

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