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「成人式」の定義を成人になってから11ヶ月を経て改めて考える

今から3週間ほどまえは「成人の日」でした。

今留学先の大学で所属しているJapanese Societyでは、新成人となったメンバーに成人式のお祝いをしようというイベントを企画している。
1年前にすでに成人式を迎えていた私は、そのイベント準備にあたっていくつか成人について質問を受けた。

新成人にはなんてお祝いの言葉をかけるの?
何かカードでもあげるの?

ふーむ。
よくよく考えれば、一般的に、成人式以外特別なことってあんまりないなと思った。そういうプレゼントをあげるだとか、どこかで食事するだとか、そんなの家庭によってまちまちだよなあと。

「なんて言葉をかけるの?」という質問に対して、
「成人おめでとう!かな?」
「他に何か言わないの?」
ここで私はGoogle先生に助けを求める。
そこでなんとか見つけたのが
「立派な成人になってね」

「何かカードでもあげるの?」
これはもらったりもらわなかったり、地域差があるだろうけど、共通認識で何かもらうものってないんじゃないかな。

ここまで考えて、思えば成人式って、特に女の子にとったら、振袖を着る、小学校or中学校の同級生に会う、場合によったら2次会のパーティーに行ってジ・エンドだな、と。
でもそもそも、成人式って一体なんなんだろうって少し思った。

少し話はずれるけど、今年の成人式で起こった「はれのひ」事件。
あれを巡って、「そもそも成人式に振袖を着るという慣習はどうかと思うウンヌン」と、私からすれば論点ずらしもいいとこな議論の展開が巻き起こっていたが、あれは本当にとんでもないお節介だと思う。

その1。
おそらく大半の女子にとっては振袖を着るというのは憧れのようなもの。伝統がどうのとか、成人式での慣習がどうのとかいろいろあるけど、でもそれ以上にその「憧れ」が全てを凌駕して女の子たちの心にあると思う。というか私はあった。

可愛いし、着物着る機会なんて若い頃はそんなにないだろうし、髪の毛も美容師さんにセットしてもらって、髪飾りもつけたりして、(なんならインスタ映えも狙えちゃう)

成人式で振袖を着ることに対して深く考えてる子ってたぶんそんなにいない。「可愛い」「楽しい」「ワクワクする」それだけ。それだけじゃ悪いか?

その2。
哀しいかな、その議論をえんやえんやと元気にやっていたのは私が見る限りでは中年のおじさんばかりだった。それなら「なおさら静かにしてください」と私は思う。「女子の可愛い問題」はおそらく今後も解決されない永久のテーマだし、もはや女性としても100%の理解を男性から得ようとする気もない。

なんなら、今議論してる人たちに娘さんがいたとして、娘さんの目の前で同じことが言えるのか?いや、言ってみろ。私なら、「パパは黙ってて!」と一喝して以降1週間パパシカトの刑を執行する(執行猶予なし)。
(それに仮に娘さんの晴れ着姿見たら、そういうゴタゴタも言ってられないような気がする。)

その3。
そうした憧れに対する対価として感じることがある。「振袖高すぎ」という声も見かけたが、そこは対価としてそうあるべきなんじゃないかとは思う。それに私の場合は、前撮りと成人式当日、振袖や美容院での着付け、髪のセットでかかったお金はもちろん、早朝からの車の送り迎えなどをしてもらった身として、このたった2日分のためにこんなにしてくれるなんて本当にありがたい、とむしろその点でそれまで何となく曖昧だった「成人」に対する意識が芽生えたまである。(ついで感があるけどせっかく話が出たのでこの場を借りて父と母には感謝を申し上げたい、本当にありがとう)

でもそんな的外れな議論の中にも一理あるものもあった。
「成人式=振袖を着る」という色があまりにも濃すぎて、事情あって振袖を着れない人にとったらなんとも肩身の狭い式になってしまってるんじゃないかと。

むしろ今回のはれのひ事件がその傾向を顕在化させたよなあと。
振袖がなくなった→振袖が着れない=成人式にでれない。
今回の事件はこの流れに対して一石を投じたように思う。

ある意味成人式は「多数派」と「少数派」に二分する。「男性」と「女性」・「痩せている」か「太っているか」・「都会」か「田舎(地方)」か、日本に限らず世界はいろいろと二分しがちなところが多いと思う。なぜなら、一人一人に合わせてカスタマイズするのはとても労力と時間がかかるし、この何十億、何百億といる人間に対してある程度の「型」を決めることが効率化への第一歩なところもあるから。

なんなら、今の書き方も効率化を目指したまである。「世界はいろいろと二分しがち〜」と書いたけど、もちろんそんなことない地域だってあるはず。でもそんなの書き始めたらキリがない。だから一緒くたにまとめてしまう。

でも本来ならちゃんとカスタマイズしていくべきなんだよね。しかも、いろんな人間、いろんな考えが昔に比べて表に出てきて、受け入れられつつある今だからこそ、なおさらそうしていくべきなんだろうね。

でも、今回で言うと、「成人式=振袖」という方程式がほぼ完全に固定化されちゃってる今、なかなか難しいことだよなあと思う。やっぱり、「ほとんどがそうなんだから、わざわざ多数派と少数派の妥協点に合わせなくてよくない?」という結果になるのだろうか。

ただ今回の一連の議論でよく見かけたのは「成人式は見栄の張り合いなんじゃないの??」という声。そんな人もいるのか?となんだか見ていて悲しくなったなあ。そしてくだらない。そんなに成人式嫌いなら一活動として署名運動でもして成人式の日をなくせばいいのでは?
結局は自己満足という意見も見かけたが、何を今更、と思う。逆に日本の社会のために、世界平和のために、振袖を着る人なんているのか(話がでかい)?振袖着て可愛くなって自分も気持ち高まる、両親も晴れ着姿を見れて喜んでくれる、ザッツオール。両親さえ満足してくれるなら私も満足だし、そういう意味では成人式は自己満足解消の式だ。

結論としては、いろんな人がいろんな思いをもって成人式に臨んでいるはずで、見栄を張ろうがなんだろうが、それは個々の問題であるべきで、他人がとやかく言うべきではないなと。そしてそれら目の前に広がる個々を、振袖を着る個々、着ない個々、成人式に行く個々、行かない個々、様々あるだろうけど、個を持つ一人としてちゃんと受け入れていくべきなんだろうなと。

ぐだぐだと書いてしまったけど、これは完全に女子からの目線(もっと言うと私目線)の成人式であって、男子にとっての成人式はまた変わってくる。前述したけど、いろんな考えが世に出てきているからこそ、それまで議論されてなかったことも議論の対象にされ、議論されていたけど表立っていなかったことも表出し、なんなら炎上もし、なんだか生きにくい世の中になってきたかなあと思った。でもそこにちゃんと向き合っていくべきなのかなあ。むしろそれのおかげで成人式について改めて考えてみることができたけど、納得する答えは出ないまま終わってしまったし。

物事を真剣に考え始めるとお腹が空いちゃうので、ああいうタイプの議論は少し苦手です。

reinakb


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