知性について

かの有名なショーペンハウエルの! と思ってクリックをされた方。大変申し訳ないですが、本記事は一切関係ありません。でも、ちょっと待ってください。「知性」というものについて考えること、私の記事を下に少しだけでもしてみませんか?



さて、前置きがてら弁明を。当初の通り、本記事はショーペンハウエルの『知性について』とは関係がありません。一度だけ通読はしていますが、私にはまったくわからなかったという感想をここに明記しておきます。

同時にこんなタイトルにしたのは、私なりに知性というものについて思うところがあったからです。知的生命体と人間が呼ばれる意味について、私なりに考えたことを、記事として残します。



では、そんなことを書くに至った、というか考えるに至った話を少しだけします。

現在、私は水村美苗の『日本語で読むということ』を絶賛通読している最中です。と言っても読み始めたばかりで、まだ最初の二編を呼んだに過ぎません。その二編については敢えてここでは多くに言及しませんが、知性について考えるに至ったのは、まぎれもなくこの本を読んでいるからなのです。

水村美苗の著書を読むのはこれで二冊目になります。先に読んだ『日本語で書くということ』がそれに該当します。私はこの著書を読み、非常に感銘を受けました。何て柔剛併せ持った方なのだろうと。こんなにも先進性と伝統性を兼ね備えた考えを持った文というのには初めて出くわしました。だからこそ、本記事の所以である『日本語で読むということ』にも出会うことができたのでここで紹介をさせていただきました。

さて、では話を戻してなぜ知性について考えるに至ったかをもう少しだけ話します。確かにただの二編でしたが、そこにはある種の人間らしさが描かれていたと思います。人間ってこんな生き物だよねと思わせてくれる、人間味のあるエピソードです。そこで、私は或るよく擦られた言葉を思い出します。

「事実は小説より奇なり」

おいおい、と思ったそこのあなた。ええ、その通りですとも。私は非常にわかりやすい人間ですから、こういう安直なことを考えてしまいます。同時にこれがなぜ何度も擦られているのかということに少しだけ繋がります。

それはさておき、私はこのクリシェの意味はこの言葉通りにしか知りません。周辺のエピソードとか、どうやって出来上がったかとかは全く知らず、ただ単純に「現実って虚構よりも面白いよね」という意味で捉え、ここでも引用します。

さて、これにて下準備は完了です。いよいよ本調理へと参りましょう。



改めてタイトルにもある通り人間の知性とは何でしょうか。

先に結論を書きます。

知性とは「人間が明日を観るための希望」です。

これはあくまで私個人の考えです。そしてこう考える経緯は上記のエピソードに由来します。

水村美苗の著書の一部を読んで考えることがありました。それは人間は一秒先をも予見することのできないか弱い生き物であるということです。また、理性的に考えれば正しいはずの道や、よくある善行道徳の話を完全に飛躍した、一見すると理解しがたいような行動を取る生き物でもあります。

例えば、おとぎ話に見られる教訓性を含んだ話。誠実、善、努力、ありとあらゆる規範的意識を内包し、人間にそのようなことをするべきだと奨め説く話。あのような話が、なぜ長きにわたって語り継がれてきたのでしょう。しかし、その所以がまさしく人間性、特に理に反することを行ってしまうという人間が絶えず現れ消えることはないということに由来しているのだと思います。

これはまた、事実を面白くし、そして小説の虚構性を高めて、また面白くする。このような関係にあるのだと思います。この言葉がもはや使い古されているのもそんな理由です。

「後悔先に立たず」、「後の祭り」、こんな言葉が今日まで残っているのもまた、私たちが今もってそのようなことを繰り返しているからに過ぎないのではないでしょうか。

そこで知性というものが必要になる。

先にも書いた通り人間は一瞬先すら知らぬ生き物です。明日死ぬかもしれない、誰もがそんな認識を持ちながら、同時にそんなことは考えないし、起こるはずもないとも信じている。それは人間という知性がなせる業でもあると思います。

知性によって人間はこの世界を解析し続けています。果てることない知的欲求を様々な方向へと向け、万象を知り尽くそうとすらしている。けれどそれがなせるもまた、人間の知性によるものです。

知らないからこそ、多くを知りたがる。

それは明日のわが身を悟ることができない人間に許された行為です。知性とはそこに宿ると思います。明日を解体し、全てを理解し、希望を完全なものとして手繰り寄せるために。

けれど、そんな日は訪れては欲しくない。そうなれば私はこの世からすべてが消えると思っています。完璧な知性ができた時、言葉はすたれ、人間は腐り、すべてが停滞する。少なくとも人間はそこで終わりを迎えるでしょう。果てぬ知的欲求がこそ、人間を動かし続け、希望のために動く。ゴールはあっても辿りつくべきではない生き物。それが人間、そして知性の源泉ではないでしょうか。

そんな、生半可で浅い知性について考えた本雑文でございました。それでは。

十 夏

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