【小説】RED PENCIL

書きかけですが、公開します。

少しずつ書き足し、修正して完成させていきます。

お読みになられた方、お楽しみいただければ幸いです。


登場人物紹介
石渡 琉夏(いしわたり るか)20歳 研究機関LIESカフェテリア スタッフ
西川 成(じょう)25歳 工場勤務 非正規労働者
鈴木 基(はじめ)18歳 LIES RED PENCIL(RP)プロジェクト チームβメンバー
沖 隆世(りゅうせい)45歳 LIES RPチームβリーダー
水野 圭(けい) 22歳 LIES RPチームβメンバー
猿田 直美 30歳 LIES 副理事 RPチームβサブリーダー 

瀬能 大和(せのう やまと)21歳 RPチームαメンバー、圭の友人
君塚 大夢(きみづかひろむ)19歳 RPチームαメンバー
犬養 武志(いぬかいたけし) 50代 LEISカフェテリア責任者

藤井 靫彦(ゆきひこ) 26歳 警察官 (新米刑事)
高橋 綾 31歳 小田切哲の第一秘書、靫彦の婚約者

葛西 凪(かさい なぎ)23歳 哲の第2秘書

小田切 哲(さとる)25歳 財閥のジュニア アントレプレーナー ベンチャー企業経営者


川口 春樹(はるき)  35歳 ノンフィクションライター
伊達 現(げん)  45歳 都市伝説ライター


第一話

オープニング

薄汚れたタイルの壁からわかる。10年ほどは経過しただろう雑居ビルだった。そこへ高橋綾は足を踏み入れた。
エントランスはただの通路でしかなかった。ヒールの音がやや暗い空間全体に響く。夕暮れの会社帰り、綾はここでいいはずだと、地下へと通じるエレベータのボタンを押した。
乗り込むと、早くこの状況をなんとかしたいという気持ちがこみあげてきた。
クロテッドグリーム、イギリス発祥で高カロリーな食べ物、そう乳脂肪の塊。
初めて口に入れたときくらくらした。その濃厚なうまみが脳細胞を刺激したのだ。いけないと思いつつも、その味を求め続けてしまった。綾はウエストをぎゅっとつまんだ。憎らしい。ここまで太ったことはなかった。憎らしい。社長め。とつぜん、菓子作りを趣味にするなんて。残して捨てようとするから、もったいないと言って食べてしまっていた。ああ目測を誤った、いや、社長の小田切のいじわるにはまったというべきか。こんな余分な脂肪がついた身体でウエディングドレスなんて着られない。しかも、全身総レースの特注品だった。サイズ変更できない。それに、この体つきでは靫彦(ゆきひこ)に申し訳なくて仕方がない。綾は靫彦より5つも年上で三十路に入ってしまっていた。年を取った、いや「ばばあ」だと何より思われたくない。結婚式まで一か月を切ってしまっている、とにかくこのウェストを絞らなければ。
その瞬間、目の前の扉が開いた。一気に周囲が明るくなった。
やはりここでよかったらしい。しかし、次の不安におそわれた。
本当にここはエステサロンなのだろうか。受付を待つためのソファすらない。室内にはリラクゼーションのための調度類が全くなかった。完全予約制なのだから、客を待たせることはないからなのか。考え始める前に、すうーっとやってくるものがあった。直立移動型ロボットだった。百六十五㎝の綾の胸のあたりの高さで、女性の音声が流れた。
「お待ちしていました、高橋綾さま、ようこそエステクラウドへ」
不安を納得へと切り替えた。ヒトよりもマシーン相手のほうが気楽だと感じる者だっている。自分のボディを他人に見せられる自信がない、自信が消えかけていれば、こんなところのほうがいいだろう。たとえ個人の施術データ処理にヒトが介入していても。
ここは、無人ですべての施術メニューを提供するプロトタイプのエステサロンだった。
初めてだったが、依頼メニュー、悩みどころをサロンへ綾は伝えていた。予約アプリでデータとして入力ずみだった。
奥の部屋に案内されて入った。簡素な脱衣所だった。
「こちらでお着換えください。貴重品はこちらへ」
セーフティボックスに財布とスマフォを入れ、四桁の暗証番号でロックした。綾はスーツも下着も脱ぎ、簡易な不織布のガウン一枚を身につけた。
ぽこっと出すぎてしまった腹をまたおさえる。
1ミリでも減らさなければ。
病室にあるようなカーテンをくぐりぬけた。室内は薄着になっても、寒さを感じない。空調は完璧だった。今のところ、サービスに支障はないと採点していた…。
だが…そこにはエステのための施術台があるはずだった。すべて匠の手さばきをラーニングした自律型マシーンがいるはずだった。
目に映った光景がわからず、振り返る。扉を閉じる音が重く響く。駆け寄ったカーテンの奥からは硬くて冷たい感触しかない。
もう一度振り返った。
そこにあるのは、棚だった。2メートル強の天井まで非常食やペットボトルの水がいくつも並んでいた。何週間分もあった。
脚から力が抜けた。瞬時に綾はくずれおれた。
閉じ込められた。


1.0 @直美@LIES(Laboratory of International Educations )
 猿田家の朝食は、本格的なブリティッシュスタイル、フルブレックファーストで始まる。
宮家を思わせるようなアールデコ調のダイニングルームに父の猿田真司、母のあやみを前に直美が居た。
 直美はナイフでベークドベーコンを切り分けている。しかし、口に運んではいない。
ともに食事をするふりをしているだけだ。
つややかに仕上げられたベージュのネイルに生活感が見えない。だから、気にくわないのかもしれない。
 大和(やまと)は基(はじめ)の手首をつかみながら、その光景を観察し始めた。上司である沖から命ぜられた課題「猿田直美と両親との間の精神的な溝を埋めて、関係を良好にさせる」を
クリアするために。
 直美が大和に自ら持ってきた紅茶は申し分のないものだった。十分にあたためたウェッジウッドのカップに入れらている。この紅茶に敵意は感じない。何とか探っていける。いけるはずだ。ゆっくり口にふくみながら、大和はじっくりと両親を見定めた。
 母は夫である父に素顔を見せたことはない。必ずメイクをしている。しかし、その口紅が取れることも臆せず、肉の塊を口に運んでいる。食欲も旺盛らしい。昨晩、新しく開拓した役者志望の男と遊び、深夜に帰ってきたことはみじんも感じさせない。
  一方、父親の前には紅茶しかない。フレッシュミルクさえ、入れていない。髪をあげ、しなやかで白いうなじが美しい女のイメージが浮かんだ。朝食は銀座の愛人の家のほうですませてきたらしい。この家の食卓を囲む風景は、朝から欺瞞という言葉が浮かぶ。
 どの家庭もボタンのかけかえ違いのような不仲な部分は出てくるものだが、この家は体裁をつくろうことが、まず第一にある。本音を言いあうことがないのだろう。
 なぜ、直美がこの二人の間に生まれたのか。そんな疑問さえ湧いてくる。
ヒトは自分の遺伝子が繁栄するよう行動がプログラミングされている。だから、より強い生存能力のある個体を次世代に生み出せる相手を選ぶ。しかし、まるきり異なる、遺伝子の相同性が低い相手だと受精率が低くなり、次世代を生み出しにくい。自分の遺伝子とやや相同性がある相手を選ぶ。生きとし生けるものは遺伝子の乗り物なのだ。
直美はこの二人の間で自然にできた子供だ。だから、直美は生まれるべくして生まれている。
 いや、直美は自分がなぜ生まれたのか、そんな自己否定に近い檻に閉じ込められているわけではない。
直美と両親の不仲の元は互いを信頼していないということなのか。
自分に致命的な弱みがあるとする。それは、ささいな弱みを見せるのも戸惑う元になる。大きな弱みの発見に結びつき、やがては自分自身の存在が全世界に拒絶される。そんな大きな身の破綻をまねくようで。
一回りも年上の女だが、そんな社会不安は自分と同じだ。そこで、大和は手掛かりをつかんだ気がした。結局俺は自分の好きになれない部分が直美の中にある。それがわかっていた。潜在意識にあった。今、こうやって健在域にのぼってきた。…まずい。あのときの絶望、あの感覚が蘇りそうだ。
 基が袖を引っ張った。「なにやってるの」
そんな目でこちらを見つめている。その澄んだ瞳を見かえし、言葉に詰まっているうち、絶望の荒波にさらわれずにすんだ。たすかった。今は直美と両親との溝を埋める手がかりを得なければ。
 大和は直美に話しかけた。
「おなかすいてないの?」
「ええ」
ちょっと機械的な反応だ。だが拒まれてはいない。父親と母親はこちらに関心を示さない。悪くない状況だ。
「朝食は食べたくないほう?オヤジさんと同じで」
「そうね。どちらかといえば」
娘は父親の真似をしたがるものだと聞いたことがある。けれど、もしかしたら、父親は直美の功績を認めていないのか?もともとはそこなのか?
「仕事のほうはどうだ?」
雑な聞き方だ。大和は軽く苛立ちを覚えた。大和も直美も基も属している研究機関LIESの出資者のひとりだ。無関心なのだろう、この手の父親は娘にこういったことを聞いても純粋に娘の仕事ぶりを聞きたいわけでも、ましてや心配しているのでもないのだろう。
否定している?そう否定している。
直美が選んだ道を。
 直美はその華奢な印象とはうらはらに、両親がコネクションで取ってきた企業への就職を断り、自らLIESの発足へと動いた中心人物だ。三十代前半にして賞賛されるべき実績になる。
しかし、両親が思い描いた絵とは違っていた。おそらく経済界の老舗の息子、あるいはIT界の寵児、そんな男と一族の繁栄、コネクション形成のために、縁談を成立させたかったのだろう。
母親のあやみが歩んできた人生とは明らかに異なる。あやみは、豊かで安定に見える生活のために親の望む政略結婚へと着地しているのだ。自ら望む道を切り拓いたわけではない。
時代劇かよ。大和はうんざりとつぶやいた。
母親は娘がどんなに努力して自分のキャリアを築こうが、手放しに喜ぶことはほぼない。みとめられない。家庭に入り、城を作り上げようとした、自ら選択した女の人生を否定されたように感じるからだ。
「いごごち悪いんだあ」
基がつぶやいた。
「なに笑っているの」
基が大和の顔をのぞきこんだ。唇の端がほんの少しだけ上がっていたらしい。
大和にしてみれば、辛辣なことしか言わない上司だ。女性の上司じたいに嫌悪を示すつもりはない。ただ、何かどこか拒んでしまうのだ。どこが悪いのか、自分が悪いのか、直美が悪いのか、いや両方正しくて両方間違っているのだろう。
どんなに生まれが良くても、苦労はついて回るものだな…。
どうやってこの両親との精神的溝を埋める?両親の言うことなんて気にするな、と言うのもおかしい。自分のやりたいことをやってれば、いつか認めてもらえるさ。これもおかしい。もうLIES創設という功績が評価されないのなら、この先何をしようが…これでは、お互いの溝なんて埋まるわけがない。正解のないパズルを解こうとしているようなもんじゃないか!
基を見ると、あちこちはしゃぎまわりたいのを抑えている。とにかく視野にはいるものをアウトプットしているが、意味のある情報として処理してはいない。記録にただ残るだけだ。
視界のかたすみ、続きの部屋のドアがふわっと揺れて見えた。ベッドの上に、白くつややかな若い女のふくらはぎが跳ねている。直美の最近の恋人だろうか。基はぽかんと見とれていた。別の部屋のベッドに、背を丸めた男の裸身がよぎった。苦渋を受け身で交わした後のようだ。時間と金をかけ鍛錬した筋肉の持ち主だったが、中年だろう。直美は、ビジネスでメリットのある男だけを相手にするのだから。 
「ぼやぼやするなよ」沖が尻を叩いてきた。
「あと5分だぞ」
もう半分過ぎたのか、この潜入のタイムリミットは10分。メモリがパンクしそうになっているのではないか。
両親がとにかく鬼門なのはつかんだ。さて、どちらから崩す?。母親か父親か。
 自分の力をみとめようとせず、その基盤を取り上げようとする父親か。いや、母親も見合いを奨めている。同罪だ。「罪?」
自分で言ったくせに、その「罪」の意味を探る。
 そうか、直美は両親を糾弾したいのではないか。
それは本来あるべきはずの夫婦という良識のもとの定義から、この二人は大きくはずれている。
しかし、直美も両親の血を引き継いでいる。常人には理解しがたい度を超しているであろう色欲にまみれているのは誰もが知るところだ。パンセクシュアルであることをさしひいても。
 そのとたん、視界に亀裂が入った。
しまった!
疑似メディテーション状態の直美の脳波が一気に崩れた。
「DMN上昇」バックヤードに居る圭の声が聞こえた。
「ばかやろ」沖のつぶやきが聞こえた。
目を閉じた瞬間、アラートが鳴り響き、レッドアウトでもいえるようなほどに周囲がはじけとんだ。
 アドレナリン、シナプス、ニューロン、はじけ飛ぶe-、e-、e-、e-、e-、e-…閃光の波に翻弄され、意識にGがかかったような感覚をあじわった。
目を開けると、見慣れた空間、脳内探査機RED PENCILβ版の開発室だった。無意識に自分に胸をあてた。あてた手の感触が自身の脳に伝搬している。神経や身体に違和感はない。正常だ。直美の脳内から無事に戻ってきている。
 しかし、隣に横たわっている基(はじめ)は目を閉じたままだ。起き上がる気配がない。まだ戻ってきていないのだ。さっきまで一緒に、直美の脳内にダイヴしていたのに。
このRED PENCILの開発プロジェクトリーダーであり、今は被験者でもあった直美もまだ横たわっていた。こちらも動く気配がない。
 RED PENCILは、脳内探査機と単純に名づけているが、人体の脳内記憶を映像にして描出する機能だけではなかった。
脳内探査の際、潜入者は二人組になっている。探索と画像描出、それぞれ役割をもつ。探索の役を担った者は、被験者の記憶や思考回路を探索するだけではない。RED PENCILという名のとおり、“校正”が主目的だ。

例えば、直美の場合、両親との関係が良好とは言えなかった。思考回路や記憶をたどるうちに、その根本原因を探り(探索)、テーブルの上に広げるように顕在化させる(画像、ビジョンの描出)。多少なりとも直美が両親に抱くわだかまりを解くヒントを取得し、悩みや問題を少しでも快方への道を見つけるのが目的だった。思考の改善システムともいえる。
ただし、これは使い方しだいで、精神療法の医療機器にもなれば、心理操作、洗脳にもなる可能性があった。テロリストを平和主義者にも変えられるだろう。また被験者の記憶をたどれば、その感情や出来事を潜入者が追体験することもできる。どんなVRにも勝る。
 その開発のための出資・協力者は多かった。政府関係筋から、老舗の電気機器製造会社から映像のベンチャーまで。しかし、技術の出向者を受け入れてはいなかった。小規模な組織体制で可変的に研究開発していきたいからだった。
まだ基も直美も横たわったままだった。
 大和は呼吸ができなくなりそうだった。
「基!戻れ!戻ってこい!」沖の声が響き続けている。
 さっき、自分は基の手を放してしまっていた。まずい…
 LIESが開発した脳内校正システムのダイバー選考に落ちただけではすまない。
 基の生命線を絶ってしまったかもしれない。場合によっては、直美の意識内に基が居たままでは、直美の脳内が、精神状態がどうなっていくのかわからなかった。
 モニター室からこちらを見つめるいくつもの不安な目の群れにさらされるうち、大和の思考は停止しかけていった。 
 
 そのころ、基は直美の脳内、いや家の中を冒険していた…
続きの広間で、直美の父と母がゆったりとソファに身を沈めているのが見える。基は二人のつま先から頭の先まで、隙のなさ、金持ちならではの余裕さをもつ雰囲気に圧倒された。
まなざしがとっても冷たい。
 基は思わず目をそらし、目の前の光景をじっくりと見つめることにした。
ポーチドエッグ、ベーコン、ソーセージマッシュルームソテー、スコーン、オーツケーキ、一皿ずつ惜しみなく盛られていた。
フル・ブレックファーストが目の前に広がっている。基は、息をのむ。衝撃だった。毎日、こんな朝食を直美は食べているんだ。直美の家の裕福さにあぜんとする。羨ましいというよりも、自分とはあまりに違った境遇に、精神がふらつく。
 紅茶はあたたかった。カップを両手でくるみ、生活の裕福さをかみしめるように、口へふくむ。
 くせのある香りと渋みが、脳細胞を刺激する。
 あぁずっとこんなふうに過ごしたい。
「戻ってこい」
誰だっけ、この声。思い出そうとするのを、カリカリに焼かれたベーコンが邪魔をする。
こっちが先だとフォークで何枚も突き刺してばくっとほおばる。
じわあああ、じわあああ…肉の脂とうまみで口のなかいっぱいになる。
あー、たまんない。
「戻って来い、基。まだ仕事終わってないぞ」
ああ沖だ。沖が命令してきた。
「いや!」
基は即答した。
「ぼく、ずっとここに居たい!」
朝がごれほど贅沢なら、夕食はどうなるのだろう。夕食まで食べてみたかった。食べられるものならば。
「はじめちゃーん」
 今度は琉夏の声がした。沖に連れて行ってもらうカフェで働くお姉さんだ。いつも、ごはんを美味しそうにやさしく出してくれる。周囲の人間で琉夏だけが、他の人間と違う気がする。あったかい気がする。沖はあったかいときもあれば、冷たいときもあるから。
 「はじめちゃーん、そこに居てもいいけど、もっといいこと、外にあるよ」
もっといいことって?
「ディズニーランド行きたいって言ってなかった?」
「あ!」
「そこに居たら、行けないんじゃないかなあ」
「う…」
「直美さんとこ、おとぎの国嫌いな大人の世界じゃないのかなあ」
そうだ、そのとおりだ。あの直美のお父さん、お母さんの雰囲気を見ればわかる。沖とちょっと似ているところがある。何だか柔らかいものを拒む感じ。きっと行かない。
 基は渋々、フォークをテーブルの上に置いた。
 赤いランプが点滅しているのが見える。そのランプの点滅と呼吸をあわせていく。そして、すーっと基の意識が消えていき…

 基は目を開けた。ふーっといくつもの安堵のため息が、天井のスピーカー越しに聞こえてくる。
 ガラス越しのコントロール室からチームスタッフのメンバーが基たちを見つめていた。基と直美に挟まれた大和は既に起きていた。おろおろと基を見つめていた。
自信家の大和らしくないなと基はきょとんと大和を見つめた。
 隣で横たわっていた直美がじっと基をにらんでいた。唇がふるえている。何を言い出すんだろう、怖い。基は身をすくめた。

ドアを開けて、琉夏と沖が入ってきた。
 「やあだ直美さん、そんな怖い顔しないでよ」
 直美が基から視線をそらした。

「直美さんのあたりまえの日常が、基ちゃんにとってはむちゃくちゃ羨ましかったんだから」
 直美はこめかみを痙攣させながら、うなずいていた。怒るのをやめたみたいだな、基の肩から力が抜けていった。
しかし、大和の顔はあおざめたままだった。基は不思議そうに大和を見つめた。

どうしたの?小首をかしげる基の瞳が、大和から緊迫感をそいでいった。
呼吸が楽になっていく。

大和はいつのまにか、忍び笑いをもらした。
「でも負けたね、ディズニーランドに」
「はあ?」
 直美はさすがに即レスできなかった。やがて、モニター室のほうからも、笑いがわきあがった。水野圭が口を開けて笑っているのが特にめだった。君塚大夢(ひろむ)の不服そうな顔も見えた。早く家に帰って仮想空間でシューティングゲームをしたいのだろう。
直美はあからさまにむっとしていた。ディズニーランドと自分の家とを比べられるなんてことは想定外だった。
「いや、負けたから基は戻ってこれた」沖がさっと返した。
「そうそ、笑い飛ばしちゃえば?」
琉夏がぽんと直美の肩を叩いた。肩の位置が下がった。力が入っていたんだな、直美はもう気をはりつめなくていいのだと気づいた。
なんだ、人間くさいところあるんじゃないか。大和はほんの少しだけ、直美を理解できていた。
それもつかのま、直美から檄が飛んだ。
「合格者なし!これじゃ公開デモは延期よ」
 笑っていたスタッフ全員が、口を閉じた。
このRED PENCILプロジェクトがうまくいかなければ、このチームは解体されるとともに、圭たちスタッフは契約解除となり、とたんに行き場を失う。
「あさって再選考!それまでに、自分の課題を克服して、ダイバー選定試験に臨むこと!」
 響き渡った緊張の中でも、沖は琉夏を見つめていた。直美の気を一瞬でも和ませた琉夏を。顎をさすりながら。こんなときの沖って、とんでもないことを思いついているんだよな。大和は漠然と気づいた。わずかにほっとした気持ちが、さっと消し飛んでいった。


1・10 靫彦
「おかけになった番号は…」
定例のアナウンスが聞こえた。藤井靫彦はスマフォをきった。昨晩からLINEも電話もまるで連絡が取れなくなっていた。
ちりっと逆毛がたったような嫌な感覚がわきあがってきた。綾が洗ってくれた道着を身に着け、、清廉になっていた精神が揺らいでいく。
「おい、始めようぜ」
稽古好きな相棒の三宅が竹刀を構えだした。
 道場の窓ぎわにスマフォを置き、面を手に取ろうとした。先ほどの嫌な感覚が静まら
ない。得体のしれない焦りへと変わっていく。手が止まった。綾と連絡が取れない、そんなことは今まで一度もない。必ず綾は電話を取ってくれていた。かけなおしてくれていた。
刑事という職業がら、もはや楽観視はできない。
「おい?」
靫彦の顔つきが気になったのだろう、三宅の顔つきも険しくなっていく。
「どうした?」
「綾と連絡が取れない」
「!…おやっさんのところにかけてみろよ」
うなずきながら、靫彦はスマフォを手にしなおした。おやっさんとは綾の父であり、靫彦と三宅のかつての先輩であった。既に引退してしまってはいたが。
一回のコールも終わらぬまま、つながった。
「綾?」
か細い女性の声が聞こえた。綾の母、佐紀だ。
「お母さん…」
「ああ靫彦さん」
佐紀の震える声を聴くうち、靫彦は口の中が乾いていった。
「綾さんと連絡が取れないんです」
「…こっちもなのよ」
息をのんだ。
「とにかく、そちらへうかがわせていただきます、いいですね」
 俺も行くと三宅が言い出した。幸い、二人とも夜勤あけの非番だった。署内の6階道場を後にし、更衣室へと急いだ。。このちりっと逆毛がたつ感覚を靫彦は大事にしてきた。一番初めに感じ取ったこの感覚で、靫彦はいつのまにか事件をかぎ分けるすべを覚えていた。そして全力を尽くして、仕事にあたる。
道着を脱ぐのさえ、もどかしかった。道着をロッカーに押し込む。ワイシャツのボタンをきちんとはめたかどうかも危ういまま、階段を駆け下りた。
 深夜の公園のベンチ。そこにたたずむ女子高生の映像が脳内でゆらぐ。
大福幸恵(おおぶくさちえ)。
交番勤務をし始めた頃だった。あの少女の悲劇を自分は防げたのではないか、靫彦はそう思ってしまっている。だから、この感覚をおろそかにしてはいけない。もう二度とあのときの無力さを感じたくない。
後悔したくない。


1.2 西川成(じょう)
 何度も画面を見た。何度もスクロールをしてみたがなかった。西川成(にしかわじょう)の受験番号は。
落ちたのだ、行政書士試験に。
 すぐに見えない圧が身体に落ちてきた。ここ一年ほど費やしたパワーが霧消した。やってきた感覚は疲労ではなくて、不安だった。不信だった。25歳で身寄りもなければ、大した学歴もない。女に頼りにされたこともない。そんな自分自身への不信がすべての血管に流れていく。
また1年頑張るしかない。肉体労働、睡眠不足、栄養不良を乗り越えて、受験勉強を続けていく。でも、また来年失敗したら?疲労の泥沼につかりながら、もがき続けて合格をめざしていくのか。でもまた次の年も失敗したら?
 もうどうしようもないのだろうか。個の感情が、世界への不満に結びついていくというのはこういうものだろうか。小さい棘が生えてくる。その棘が牙になっていくのだろうか。この棘を世界に投げたい思いは過ちだろうか。妬み、嫉み、憎しみだらけのブラックなサイトが成を手招きしているようだった。
 
 いつのまにか、シンプルに古びたドアが描かれた画面を見ていた。
「汝を知れ」「過ぎたるは及ばざるがごとし」「誓約と破滅は紙一重」
ポリシー全てをたどたどしく迷いながら打ち込んだ。けれど、やめられなかった。今を破りたかった。
ドアが開き、画面が切り替わった。そこに一文だけあった。
「きみの望みは?」
 試されているらしい。
「奴隷の解放」
 デルファイの信念を声にしてつぶやいたとき、画面がフリーズした。不合格だったのだろうか。もう何もすることはないかもしれない。いや何かできることってあるんだろうか。
画面をもう一度見直したとき、次のドアが開いていった。そして、見つめ続けた。

1. 30 @AR+VR空間
 左脚ひざ関節を緩めた。ダッキングで敵の右ストレートを交わす。間に合わず、小田切哲は頬にかすかに衝撃を受けた。痛覚はない。すぐにアドレナリンがあふれてできた。心地よい興奮に舌なめずりする間もない。左に沈みかけた身体をファイティングポーズへと整える。おそらくコンマ1秒。最新の7G開発技術を利用した通信移動距離速度は**。
もはや有線よりも無線での伝搬速度はまさっている。そう、敵ははるか向こうアメリカに居る。そして、対戦相手ダニエルの攻撃は容赦ない。スムーズだ。ダニエルのほうが通信速度がいいのか。しかし、空間把握力は大したことはない。リーチが短いようだ。こちらのギミックのほうが元バドミントン選手なだけあって、脚の踏み込み力、瞬発性、リーチの長さは勝っていると見てチャンスをうかがう。
VR越し、ダニエルが操るギミックの動作のほうがスムーズに映る。タイムラグがないのだろう。それと同時にギミックはしょせん生身の人間に操作者の動きを伝搬するスネあて、肩当て、グローブ、ヘッドギアなどを装着している。操作者であるダニエルも哲が傷つくことはない。敵ギミックにその恐怖がないのか。状況を把握しようとした一瞬、隙ができた。
それを逃さず、敵は左ジャブで二歩も踏み込んでくる。ガード。何とか間に合う。顔にダメージは来なかったが、ガードしたグローブ越しの衝撃が伝わってきた。なかなかのものだ。いい緊張感だとみて、むしろ心には余裕を持ちたい。敵もそうだろう、ダニエルは難解な課題が上がってくるほど燃えるタイプの実業家だ。いま、電気自動車のシェアに頭角を現しているのも、本人の戦闘スタイルゆえんだろう。
 近距離なのを逆手に取らなければならない。そう認識したと同時に左脚が動いていた。
このギミックへの伝導率は速いのか遅いのか、判断がつかないまま、右でふんばり、左でローの蹴りを入れた。
どうか?
弱くてダメージを与えるには程遠かった。敵ギミックは傾きもしない。しかし、嫌だったらしい。無意識にだろう、やや離れた。そこでこちらは体制を立て直せた。
こちらの右脚が敵の視界に入っているのはわかっている。問題は反応速度と、衝撃の電導レベル、そして互いのギミックの本能的な反射神経だ。それでも一瞬にかけた。敵の左側頭部をやり過ごした。哲のギミックの蹴りは外れた。いやそのように見えたに違いない。哲の距離感覚とパワーが蹴りの軌道に入った。右の踵に衝撃がある。敵ギミックの頬骨への食い込みを実感する。「あっ!」驚きと口惜しさが混じったダニエルの声があがる。一度外したかに見える逆蹴りの技が来るとは思わなかったらしい。
アラートが鳴った。敵ギミックが制御不能の身体破壊域に入ったのだ。
ヨシ、コワレタ…
勝った。ダニエルの荒々しい声が聞こえてくる。怒りをこめながら実に紳士的に負けたと言い放っていた。
ギミックとの接続装置をはずす。
「ギミック」と呼ばれる生身の人間を傀儡として遊ぶ格闘ゲームを思いついたのは、哲だった。対戦相手がいなければならないが、酔狂なダニエルなら乗ると踏んでいた。不老不死計画のサークルを通じて知り合った二人は、身体を鍛えるトレーニングを話題にし、意気投合した。自分が知った格闘技の技を思いきり試してみたいと話すようになっていたのだ。7Gの開発においても、ビジネスの面でも利はある。生贄ともなるような、生身の人間であるギミックはそれ相応のダメージを受けることは外している。現にダニエルのギミックは、哲の攻撃で頬骨を骨折した。しかし気に留めることはない。
その分の報酬を支払っている。いやアスリートだったギミックに賭博を覚えさせ、借金まみれにさせ、返済させていったほうが正しいが。
破壊したことで、哲はマイケルのギミックを手に入れた。
「骨の再生治療のチームのサンプルにしておいてくれ」
哲は第二秘書の葛西凪に言った。
凪はうなずいたが、何か言いたげだった。
「どうした?」
「先輩の、高橋さんの親御さんが見えています」
「ご夫婦で?」
「はい」
「まあ一度は話をしないとな」
「第一応接室のほうでお待ちです」
「すぐに行く」
哲は何をするにも顔色ひとつ変えない。生まれは旧財閥の一家で名門だ。本人が歩くブランドだと言っていい。感情を表に出さず、何事もあたっていくように教育されたのがすぐにわかった。物腰も優雅だった。顔立ちも女ウケするだろう。何もかもが与えられているようだ。凪の中に、ひとつ疑問が浮かび上がる。この男の生きる目的はなんだろうと。
軽く頭を回転させるだけで、市場の価値を判断し、ベンチャー企業への投資の可否を決める。商談でじっくり自分が育てた会社を有利に瞬時に売却する。
しかし、目は笑っていない気がしていた。
ヒトの身体をおもちゃにしたオンラインゲームで汗を軽く流す以外は。道徳観念的に見て決して褒められたものではない。このゲームに興じ始めたのは、綾がいなくなってからだった。凪は綾の後続として採用された。しかし、社長秘書という役割を果たしていないような気がしてしまう。
綾は、哲の中にボーダーラインを設けさせているというか、綾が哲の道徳観念を制御していたような気がしているからだ。勤め始めてまだ三か月ほどだ。時間が経過すれば、綾を超えた存在になれる。そう自己暗示をかけるしかない。
時代錯誤さえ感じるような寿退社予定の綾の後を任されているのだから。
哲の着替えを手伝いながら、綾が消えた経緯を凪は思い返した。
高橋家から綾と連絡が取れないと電話を受けた朝、本当に綾は出社しなかった。それからやはり、綾の姿を見ることはなかった。綾の父親と婚約者は警察官だった。事故にまきこまれたのかと、当日の事故を調べ、身元不明の女性が病院に搬送などされていないかすぐに調べていた。しかし、そんな情報はなかった。「消えた」と言えるほどだった。
 推しはかってみる。綾の姿が消えたのは本人の意志だろうか。いや違う。さらわれたか、殺されてもうどこかに埋められてしまっているのか?いや、殺されてしまう理由なんてあるだろうか。仕事を通じて三か月の付き合いだ。それでも、そんな凶悪な事態を招いてしまうような人格には感じられなかった。ただ、警察官の娘だった。婚約者も警察官だ。逆恨みの対象にでもされたのだろうか。凪の精神の奥底に、漠然とした不安が揺らいでいた。揺らぎながらも決して流れ去っていくことはないだろう。そして、高橋家や婚約者の藤井には積極的に協力すべきなのに、ためらってしまう。本当に綾は見つかるのだろうか?どこかで生きながらえている、そう思って探すのをあきらめたほうが悲劇にならないのではないか。凪は自分のカンの鋭さを誇りにしていたが、今回ばかりは自分のカンが外れてほしいと願い始めた。


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