見出し画像

ドアスコープの向こうに見える人生

平日、テレワークで自宅に居るとチャイムが鳴った。
普段は居留守を使う事が多いがスコープを覗くと制服姿の男性がいたので、ガスだとか電気だと配達だとかの人かと思ってドアを開けた。

その人は乳製品のセールスマンで、「お姉さんやご家族は牛乳や乳製品は飲みますか?」と、汗まみれの顔で聞いてくる。

そうするつもりはなかったが、渋面になって「飲まないです」と素っ気なく言うと「そうでしたか。失礼しました」と言ってあっさり去っていった。
こういう事態に慣れているのだろう。
扉を閉めた直ぐ後で隣の部屋のチャイムが聞こえた。

彼から見たら私はさぞ態度が悪かったと思う。
ただ、うちのマンションには乳製品を定期購入する人などまず居ない。
そんな人達ならとっくにもっといい家に越している。
そう思って困惑したのだ。

私とて好きで断った訳ではない。
乳製品を飲まない、という事はなく、お金さえあれば定期購入を検討したかもしれない。
しかし現実は違う。

幸い今は安定した仕事に就いているが、会社もさほど大きくないし、いつどんな理由で安定を欠くかは分からない。
そして今の職場はきっと最後の一般就労だ。
この細い糸が切れたら私は知的障害者として障害者雇用に行くしかない。
月数万の収入に障害年金を加えても微々たるものにしかならず、だから私は今も切り詰めるために、この安普請のマンションに住んでいるのだ。

そんな人間にセールスをかけられても、応えようがない。

陽射しの入らないこの部屋でも暑い日だと分かった。
重そうなサンプルを抱え、顔を汗で濡らしてあちこちにセールスをかけているその人に申し訳ないと思った。
そしてこんな安普請のエレベーターのないマンションにまでセールスをしにくるその人を少し哀れだとも思った。
そうそう買う人は居ないのに、ノルマをこなさねばならない事が可哀想だと思った。

でも彼はいざとなればもう少し苦労の少ない職に就くことが出来る。
本当に辛ければ仕事を余所に移ればいいだけ。

私は今の仕事を失ったら、一生人から哀れまれて暮らす事になる。
あの人、生まれつき惨めな人生が約束されてるんだね。
何も出来ないんだもの。
可哀想だね。

後ろ指を指されながらそんな噂を立てられるのだろう。
それだけで済めばまだいい。
悪し様に罵ってくる人だっているのだ。

ドアを閉めた後、一瞬にしてそんな思いが湧き上がってきた。

でも彼は私がそんな事を考えている事を知る由もない。

普通の感じの悪いお姉さんの私はきっと彼の記憶からすぐ消えただろう。

汗まみれで階段を登ってきたであろう男性の真っ赤になった顔が今だ浮かんでは消える。

未来を自分の手で選択出来るに違いない彼の事を、私は暫く忘れられそうにない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?