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なぜ気軽に妊娠報告できないんだろう。

2年間にわたる長い妊活は突然終了した。

体外受精の場合、妊娠したかどうかは生理を待たず、1週間早く分かるのがメリットだと思う。胎嚢がまだ見えない段階で血液検査でホルモン値を計測し、妊娠したかどうかが分かるのだ。

体外受精により採卵し、移植した時に見た小さな小さな受精卵。

移植終了時に立ち上がったら子宮から落ちてしまうんじゃないかという位心もとなく見えた白い粒は、どうやら子宮の中で居場所を見つけてすくすくと育っていたらしい。

私の通う不妊治療専門の病院は妊娠8週目まで経過観察をするというので、妊娠がわかったその日から毎週エコーを確認した。

5週目で胎嚢が見える。

6週目で心拍が確認できる。

7週目で二頭身となった姿が確認できた。

経過は順調だ。

体調の変化は目まぐるしい。

5週目は午前中に船酔いのような気持ち悪さを感じていたが6週目からは反対に食欲がすさまじく、2時間おきに何か食べないと居ても立ってもいられない。

朝もお腹が空きすぎてアラームが鳴る前に毎日目覚めて冷蔵庫にダッシュしてしまう。

7週目は空腹で朝起きてしまうのは変わらないものの、2時間おきのすさまじい食欲は緩和され、楽になった。

体調が良いと反対に、流産したんじゃないかと心配になってしまいやめておけばいいと分かっているのに「流産 兆候」「流産 可能性」「安定期 いつ」・・・検索する手を止めることは難しい。

そんな不安いっぱいの毎日を過ごしつつも、心拍の確認ができたタイミングで、直属の上司と両親、そして一部の友人に妊娠報告をした。

報告した友人は二人で、二人とも妊活、そして流産した経験がある。現在、一人は妊娠中でもう一人は妊活中の二人だ。

両親はもちろん、上司も友達も、みんなとても喜んでくれた。

ただ、友達全員に妊娠したことを打ち明けられなかったことがなんとなく自分の中でひっかかっている。

まだ安定期に入っていない、流産の可能性が大きい時期だから、と思うとなんとなく躊躇われてしまった。

妊娠報告してしまったあとで流産報告も、もしかしたらしないといけなくなるのかな・・と想像してしまうと口が重くなってしまい、一緒にご飯を食べても妊娠したことは言い出せなかった。

流産は全妊娠のうち15~20%も発生することだから誰の身に起きてもおかしくない。

ただ、この事実は私自身妊活を開始するまで知らなかったし、独身の友人も多く、妊活経験がない人は流産と聞いてどう思うんだろう、と怖くなってしまったんだと思う。

そんな時に吉川トリコさんの記事を読んでとってもスッキリすることができた。

 石を投げればバツイチに当たるというぐらい、まわりは離婚経験者ばかりだというのに、安定期(ってなんだ)が過ぎるまで結婚の報告を控えるなんて話は聞いたことがない。家族や友人やペットや推しの死にいたっては、自分が先に死なないかぎり100%の確率で起こることである。どうして流産の話だけがこんなにも避けられ、隠されなければならないんだろう。

確かに悲しいことはいくらでも起きるのになぜ流産だけ敢えて隠しておかなければならないのか。

大っぴらに話しちゃいけないこととされているから、多くの人が内々で処理をし、なかったことにしているのだろう。不妊治療にもそういった側面はあるし、生理だって最近になってムーブメントが起こっているけれど、少し前までは口に出すのも憚られることだった。
 古くから日本では、生理中の女性を「穢れ」とみなし、月経小屋に隔離したり、神社に参拝することを禁じたりする風習があった。スウェーデンの女性漫画家リーヴ・ストロームクヴィストの『禁断の果実 女性の身体と性のタブー』によると、女性や生理をタブー視する文化は日本にかぎらず世界中に存在するらしい。出産による出血ですら厭われていたぐらいなので、流産した女性の扱いなどそれは酷いものであっただろうことが容易に想像がつく。
 流産を他人に知られてはならないという不文律の根っこは、おそらくこのあたりにあるのではないだろうか。出所さえわかってしまえば、そんな女性蔑視的なクソ因習になんで21世紀を生きるうちらがつきあってやんなきゃいけないの? クソたるいっつーか知んねえっつーの、ほんじゃお先でーす! というかんじである。

トリコさんは、ご自身の流産経験も妊娠初期の流産は染色体以上によるものだからどんなに母親が気をつけていても起きてしまうことで、15%の確率で誰にでも起き得るということを知り、さっぱりと割り切ることができたそうだ。

物語に描かれる流産はいかにもおそろしげで、不幸でかわいそうげなものばかりだ。流産した女はみな悲嘆に暮れ、めそめそ泣くばかり。わかりやすく記号的で、私の体験したものとは大きな隔たりがある。
 良くも悪くも物語が社会に及ぼす影響を私は理解しているつもりなので、流産してもへらへらしている女のことも書いておかんとなと思い、ちょうど依頼を受けていた新聞のエッセイに書くことにした。共感を求めていたわけでもましてや同情してもらいたかったわけでもなく、「ふーん、そっか」ぐらいのテンションで受け止めてもらえればじゅうぶんだった。「こういう人間もいるんだよ」と言いたかった。

そうだよね、と思った。

今お腹の中にいる子が流産してしまったら私はきっととても悲しむと思う。

でも、それは誰にでも起き得ることで、かつ、誰のせいでもないし、特別に哀れんでもらう必要があることでもないはずだ。

かわいそうに・・と特別同情される必要はないし、それを「流産あるある」として笑いに昇華することで前に進めるのであれば笑い飛ばせばいいのだと思う。

最近は菅政権に変わって、不妊治療が保険適用化に向けて動きを見せたりと「妊娠」について関心が高まってきたことを肌身に感じているところだけど、

誰もが経験する「妊娠・出産」についてもっと理解が得られる社会になってほしい。

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