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「小説の模写」って練習になるの?


Q.「小説の模写」という練習をしてみたことがあるのですが、練習になっているのか分かりませんでした。文章を書き写すだけなら誰でも出来るし、写しても別に自分の文章が上手くなったように思えません。どうやって模写したら練習になるのでしょうか。

A.「トレス」と「模写」の違いは分かりますか?

いきなり絵の分野の話だが、ゴリラの皆さんは絵の「トレス」という言葉を聞いたことはあるだろうか。日頃から同人誌に親しんでいる方なら一度くらいは耳にしたこともあるかもしれない。
絵の「トレス」とは、お手本になる絵の上に薄い紙や、デジタルならレイヤーを重ねて、お手本の線をそのままなぞって描くことだ。これは絵をまったく描いたことのない初心者や幼いアニマルにとっては、いくらか練習になることもある。しかしある程度絵を描いてきた方や、上達したいと強く願う人にとっては練習法としては向かないやり方だ。反対に、「絵の模写」はまだコンピュータなどというものが存在しなかった時代から画家を志す者にとって有意義な練習法であり、美術学校などでも行われている高度な訓練とされている。「トレス」も「模写」も、それはあくまで練習であり「本人の作品」ではない。トレスや模写した絵をオリジナルの作品と偽ることはジャングルにおいて最も嫌われるおこないの一つである。しかし、練習としてならば「絵の模写」は推奨されることも多いのだ。最初は好きな漫画家さんの絵を真似してみよう、などというのはイラスト初心者さん向けの講座などでも言われる言葉である。
では何故、「トレス」よりも「模写」の方が練習になる、と言われているのだろうか。この二つには、一体どんな違いがあるのだろうか。

「トレス」と「模写」の違い


まず掛ける時間が違う。こればかりはいかんともしがたい事実である。絵を描き始めたばかりの初心者さんでさえ、お手本の上にレイヤーを重ねてなぞるのと、横に置いた絵を見て真っ白なキャンバスに描き写すのでは、掛かる時間が違う。
模写は、トレスに比べて時間を使う作業だ。
トレスの場合は、そこにどんな線が引いてあるか、その線がどこと繋がっているか、線がどんな意図で描かれたか、などということを考える余地も必要もない。ただ目の前にある線をなぞるだけで、お手本に似た絵が出来上がるからだ。
だが模写はそうはいかない。何も考えずにお手本を見ただけで描き写すのは、絵の場合難しい。全体像をよく見てバランスを把握し、細部を観察して線の繋がりを理解し、色の置き方やどんな色を選んでいるかをじっくり見極めて真似しなくてはならない。一生懸命に真似しても、出来上がった絵はお手本とはまるで懸け離れたものになってしまうこともある。
「絵のトレスと模写」についてピンとこない、というゴリラの方は、是非今トライしてみるといいだろう。何でもいい、好きな漫画の表紙や好きな絵師さんのイラストなどを用意して、「紙やレイヤーを重ねて描く」のと「横に置いて見ながら描く」というのを試してみるといい。やってみれば、何が違うのかはっきり分かることだろう。

先程も述べたが、模写の場合は「その絵が作られた工程」を想像する必要がある。トレスなら何も考えずになぞるだけの線でも、模写するなら「この線はスカートのシワだな」「この線はキャラクターの動きを表してるんだ」などと考えながら描き写さなくてはならない。トレスに比べて時間もかかるので、じっくりそういうことを考える余地もある。そして、この「工程を考える」ということそのものが、模写が練習法として推奨される理由だ。
どのように絵が描かれているのか、描いた人がどんな手順で描いたのか、どんなことを考えて描いたのか。そういったことを自分なりに考えて、自分の手でそれを再現し、記憶していく。真似ることによって得られた「絵を描く人が考えていること」や「絵を描く手順」という知識が積み重なれば、それは「本人のオリジナルの絵」を描く時にも必ず役に立つことだろう。お手本が技術的に優れた絵であったり、自分の目指す方向性の絵であったりすれば、そこから得られるものも格段に増える。
そしてこれは、「小説の模写」にも共通するメカニズムである。

「小説の模写」


小説の場合は、「書き写す」ことは決して難しくない。というか、お手本を横に置いて書き写すと、視覚的には「トレス」と同じ結果が叩き出されてしまう。見た目はまったく同じ「文字が並んでいるだけのもの」が出来上がるのだ。だが聡明なゴリラ諸氏ならもう気付いていることだろう。
絵の「トレス」をすれば、お手本によく似た絵が簡単に出来上がる。しかしトレスをした場合、得られる「知識」や「経験」は非常に少ない。たとえ模写した絵の方が下手でも、トレスよりも歪んだ絵になってしまっても、得られた「知識」や「経験」は模写の方が圧倒的に勝っているのである。
小説の模写は、「ただ見えている文字を写す」行為では「絵のトレス」と同等の効果しか得られないのだ。小説の模写を練習としておこなうなら、考えなくてはならない。その言葉が一体何の意味を持っているのか。何故そこにその言葉が挟まっているのか。作者はどんな気持ちになってほしくてこの言葉を選んだのか。ひとつひとつの段落の意味は。次の段落との繋がりは。伏線はいつ張られていたのか。一見本筋に関係なさそうに見える描写は、アイテムは、それを語る言葉には、何の意味があるのか。
これをやるには、キーボードに文字を打ち込んで模写するよりも、紙に手で字を書いた方が良い。何故ならその方が「時間が掛かる」からだ。また、紙に字を書くというのは現代でも小学校などで大勢の人類が強制的に練習させられる行為であり、大抵の人は必ずある程度の修練を積んでいる。社会人であればキーボードで文字を打つ機会の方が多い人というのもいるだろうが、そういう人も練習として小説の模写をおこなうなら、手書きの方が効果が出やすいはずだ。「時間をかけてじっくりと言葉の意味を考えながら」書き写すことこそが、小説の模写という練習の目的だからだ。

たとえば、キャラクターの仕草を描写するのが苦手だというゴリラであれば、仕草や動きの描写が「上手い」とされている小説を模写するといい。当然模写する際には、その描写に何の意味があるのか、どういう順序で言葉が組み立てられているか、言葉のリズムやテンポはどうか、文末はどんな形で締められているか、などということを詳細に観察するといい。模写するだけではいまいち掴めないなら、模写した自分の文字に蛍光ペンなどでマーカーを引き、そこに自分が気付いたことのメモを書き込んでいくといいだろう。
主語や述語が抜けてしまいがちだ、というゴリラなら、模写した文章の「主語」と「述語」にそれぞれ違う色のマーカーを引く。一文の中に何度くらい「主語」が挟まっているのか、全体で見た時のバランスはどうか、「主語」が書かれていない文章があるならそれはどういう文なのか、そういうことをマーカーを見ながら考えるのだ。色分けされて視覚的効果がつくと、頭の中も整理しやすくなることだろう。
風景などの情景描写が苦手だというゴリラなら、美しい風景や料理などを臨場感たっぷりに書いている小説や、キャラクターの心理を風景に重ねて描写しているなどの小説を模写してみるといいだろう。景色のどこを「言葉」として切り取っているのか、色やにおいを表す言葉の選び方は、五感の何を書いているか、文章量はどうか、それはストーリーやキャラクターと何か関係のある情景なのか。そういったことを考えながら模写してみるのだ。模写した文と自分の文を見比べてみると、何が足りないのかも分かりやすいだろう。

自作の「模写」


プロや上手い人の文章を模写してみるだけでなく、自分の書いた文章の「模写」も手書きでやってみる、というのも練習になる。
プロの文章を模写した時と、自分の文章を模写した時で、違うと感じる部分があるはずだ。勿論心理的にも「自作を見返すのは恥ずかしいな」とか「自分の文章だと照れるな」とかいうことはあるだろう。だが、それ以外にも何か違和感があったり、似たような文章なのに「てにをは」が違う、という部分を見つけたりも出来るはずだ。その「違う」部分こそが「言葉を使うための技術の差」である、というのは大いに考えられる。
また、言葉の意味や文章の意図を考えながら模写をするというのは「客観視」と呼ばれる行為に繋がり、自作を冷静に見つめなおす機会にもなる。書いている最中には気付かなかった誤字にアップロードしてから気付く、というのはこの「客観視」が影響している。誤字チェックのためにスマートフォンや別のデバイスから文章を確認する、というのも聞いたことのあるゴリラがいるだろう。これも客観視の一つの方法だ。
人類というのは不思議なもので、気分が落ち込んでいる時には普段とまったく同じ景色を見ても色や形の認識が変わってしまうことがある。テンションが爆上がりしている時も同様だ。「アップロードするとミスが見付かる」のもこれと同じことで、気分を切り替えると今まで見えていなかった部分が見えるようになる、ということがある。その切り替えを強制的におこなうための手段が、「デバイスを変える」であったり、「一度アップロードする」であったりする、という訳だ。これが「客観視」の正体である。
つまり「客観視」が出来れば、自分の作品をより良いものにするチャンスをどどんと増やすことが出来るのである。誤字以外の間違いや違和感も、模写をして客観視してみれば気付きやすくなるということがあるのだ。

「精読」と「模写」


そして、模写の目的として存在する「時間をかけてじっくりと言葉の意味を考える」という行為を、「書き写す」手順なしでもおこなえる人というものもいる。
これが「精読」と呼ばれる行為の正体だ。
文章を書き写さなくても、「読む」中で書き写すのと同等の「じっくり考える」をおこなうことの出来る人がいるのだ。だがこれは文章を読むということに対して並外れた修練が必要である。「読む」スキルだけでなく、「書く」スキルにおいても群を抜いた経験や才能が必要だ。従って小説初心者さんの場合は、まず「模写」から始めるのが無難だろう。模写でじっくり考えながら言葉や文章を分析するという感覚を掴み、読むスキルも書くスキルもある程度育ってから「精読」にチャレンジすると良いだろう。
「精読」が出来るようになると、文章を読むだけでも文法の間違いや違和感に気付いたり、構成の破綻の原因を詳しく説明することも出来るようになる。巷で「感想屋さん」などと言われるスキルマーケット系サイトの感想・校正サービス出品者の方などは、このようなスキルを身につけておられるという訳だ。読むスキルなしに他人の作品の意図や魅力を読み取ることは出来ないし、書くスキルなしに感想文を書いてお金を頂くわけにはいかない。「感想屋さん」はいわば「精読活動家」なのである。

「練習」は「続ける」必要がある


当然のことだが、プロであっても文法を間違えていたり誤字脱字のある作品も存在する。従って模写を練習としておこなうなら、一つの作品や一人の作家だけを試してみても練習にはならない。一度やってみてやめてしまっては、得られる効果も薄いものだろう。練習とは続けていくことで蓄積されるものを積み重ねて、初めて効果が出るものなのだ。魔法のように今すぐ上達したい! 効果が出るまで努力を続けるなんて我慢出来ない! というのなら、こんなその辺のジャングルでバナナ食ってるゴリラの記事を読んでいる場合ではない。魔法を探してインターネットの海を旅してくるといい。もしかしたら世界には、本当に魔法のように誰でも一瞬で何かが上達する方法があるのかもしれない。残念ながらゴリラは、一瞬で小説が上達する方法に出会ったことは一度もないが。
小説に限らず、どんな分野であっても練習とは時間も労力もかかるものである。時間と労力をかけることそのものが「練習」の目的だ。勿論、その中で一生懸命に考え、自分なりの答えを見付け、実践をしていかなくては、練習の効果は薄くなってしまうだろう。だが、貴方が「練習」という行為に必死で立ち向かった、という事実は決して覆らない。たとえ結果に繋がらなくても、怖くて実践出来なくても、無駄な時間を過ごしたと他人に言われても。貴方が、一生懸命に何かをしたということだけは、誰にも変えることの出来ない真実だ。
貴方が本気で「小説の練習」に取り組んでみようとするのなら、少なくとも世界中で一人はそれを応援している。心の底から。何の意味もなく誰にも読んでもらえないかもしれないこんな文章を、一生懸命に頭を捻って必死で書いて、叩かれるかもしれないと恐怖しながらwebに載せるくらいには、応援している。ゴリラは何も出来ないただのゴリラだが、ジャングルのどこかで生きているゴリラだ。ジャングルに足を踏み入れんとするなら、貴方もまたジャングルの掟的にはゴリラの仲間である。ゴリラは仲間を応援している。だからもし「模写して小説の練習してみようかな」という人がいるのなら、是非チャレンジしてほしい。ゴリラはいつもジャングルで貴方を待っている。

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