見出し画像

「小説なんて誰でも書ける」は本当か?

Q.SNS上の知り合いが、「小説なんて誰でも書けるよ」と言っているのを見かけました。その人の書く小説はとっても素敵で、私はその人のような小説を書く人を他に知りません。自分で小説を書いてみようとしたこともありますが、原稿用紙一枚分も書けずに挫折しました。だから尚更「小説を書く人はすごい」と思うのかもしれませんが……本当に、小説は誰でも書けるものなのでしょうか。

A.「へのへのもへじ」を描けますか?

「小説なんて誰でも書ける」という言葉は、もう何十年も前からアマチュアの趣味の世界で議論の的になっている。特に同人活動という分野においては、「絵」と「小説」という二つの活動媒体を比較する際によく持ち出され、その度にどこかで争いの起きる言葉である。今回の質問者さんが見かけた言葉がどのような意味だったのか、それはゴリラには分からない。その方は謙遜してへりくだった言い方をしただけなのかもしれないし、本心から自分の書いているような小説は誰でも書けると思っているのかもしれない。あるいは周りの方にも小説を書いてみてほしい、チャレンジしてほしいと思って言ったのかもしれない。真相はゴリラには分からない。しかし、ゴリラなりに「小説なんて誰でも書けるのか」という質問に答えることは出来る。
再三の勧告ではあるが、これはゴリラ向けのテキストなので、お読みになる方にはまずここに書かれていることは半分くらいゴリラ語である、ということを念頭に置いていただきたい。そう、別にここに書かれていることは正しい訳でもなければ貴方の人生を邪魔するものでもない。なるほどそういうのもあるのか、と思っていただければ幸いである。

さて、本題に入ろう。
絵の分野の話になるが、貴方は「へのへのもへじ」を描けるだろうか。本日はゲストに絵描きゴリラをお呼びしている。ご協力頂いたウォーターゴリラさん、ありがとう。では早速だが、ウォーターゴリラさんの描いた実例をご覧頂こう。

画像1

これは平仮名の「へのへのもへじ」という文字を、人の顔のように見える配置で書くことによって「顔っぽい絵が描ける」という、古来よりジャパニーズ人類に伝わる描画手法だ。これを知っていれば、脱力系の顔が誰でも簡単に描ける。
そう。へのへのもへじは、大体の人が描ける。そしてへのへのもへじだって、立派な「絵」だ。
小説も同じで、「へのへのもへじ」のような小説ならきっと誰にでも書けることだろう。読み書きさえ習っていれば、小説なんて書いたことも読んだこともない幼い子どもであっても、「今日あったこと」を文章に書くことは出来る。実体験を文章に綴るのは「エッセイ」という立派な小説の一種だ。

「へのへのもへじ」は「描き方が決まっている」から、それは絵ではない、という主張も人類の皆様にはあるかもしれない。では、今度はウォーターゴリラさんに自由に「花」を描いて頂こう。

画像2

いかがだろうか。この「花の絵」は決まった描き方を指定されているものではなく、ウォーターゴリラさんが自由な発想で花を表現したものである。これも立派な「絵」だ。

いやいや、こんな簡単なものは「絵」じゃない、もっと繊細な線とか色を塗ったりとか……という主張もあるかもしれない。ではウォーターゴリラさんに、線を増やして色を塗って頂こう。

画像3

へのへのもへじも、先程の簡単な線で描かれた花も、この牡丹の花の絵も、同じゴリラが描いた絵である。そしてこれらは全て「絵」だと、ウォーターゴリラさんは言っている。
しかし、これらの絵に明確な違いがあることは、人類の皆様にもご納得頂けることだろう。前者の「簡単な花の絵」と、後者の「牡丹の花の絵」の間には、大きな開きがある、と思われる方も多いのではないだろうか。それは使われている技術の差や、積み重ねた知識の差、掛けた時間の差である。そして、小説にも「簡単な花の絵」のようなものもあれば、「牡丹の花の絵」のようなものも存在するのだ。

「簡単な花の絵」ならば、紙と鉛筆、あるいはお絵描きソフトがあれば、まさに「誰でも描ける」だろう。
「だから絵だって誰でも描けるよ!」
とウォーターゴリラさんは言う。しかしウォーターゴリラさんの描いた「牡丹の花の絵」は、「誰でもは描けない」と思う方もいらっしゃるのではないだろうか。そこに使われた技術や知識、それらを蓄積するための訓練、時間と情熱を傾けてひとつの絵を描き上げるということは、誰にでも出来ることではないだろう。
そしてそれは、小説においても同じことなのである。

誰でも書ける小説

たとえば子どもの頃に書かされた人も多いだろう「なつやすみのにっき」のような文章であれば、「誰でも書ける」ということになるだろう。しかしなつやすみのにっきでさえ、読んで面白いと感じる日記を書けるクラスメイトもいれば、何を言っているのか分からない支離滅裂な日記を書くクラスメイトもいただろう。アマチュアの趣味、同人活動においてもこれは全く同じである。
作例をご覧頂こう。

メリーちゃんはピンクが好きで、ピンク色のリボンが好きで、だからいつもピンクのリボンをどっかに付けてて、今日は髪だったんだけど。昨日はバッグにつけてておとといは上着の。それで明日は靴下をピンクのリボンついたやつにしようと思って、今日は靴下を出して枕元に置いてから寝たんだけどおかあさんが靴下洗濯しちゃったから明日起きたら靴下がなくてメリーちゃんは泣いちゃった。

これは「小説」という表現媒体において、「なつやすみのにっき」のような「誰でも書ける」文章と言えるだろう。実際、子どもの書く日記や物語にはこうした文章も多い。では、これをウォーターゴリラさんの「牡丹の花の絵」のようにするとどうなるだろうか。

あるところにメリーという女の子がいました。メリーはピンク色が大好きで、特にピンクのリボンが一等好きでした。洋服やバッグ、髪飾りも、いつもピンクのリボンが付いたものを選んで買ってもらいます。その日はピンクのリボンで髪を結んでいましたが、明日は違うものがいいな、と思ったメリーは、自分のクローゼットの中の可愛らしい服たちをじっくり眺めました。どれもピンク色で、全部お気に入りの服です。どれにしようかうんと悩んでから、
「明日はこれ!」
と嬉しそうに言うと、小さなピンクのリボンの付いた靴下を取り出しました。メリーは靴下を丁寧に枕元に置いて、明日この靴下を履く時のことを夢見ながらベッドに入りました。
しかし翌朝目が覚めると、枕元には靴下がありませんでした。お母さんに尋ねてみると、どうやら洗濯物と間違えて洗ってしまったようです。メリーがベランダに駆けていくと、そこには湿って細くなった靴下が、お父さんのシャツと、お母さんのセーターと一緒に干されていました。ピンクのリボンは水を吸ってすっかり色が変わってしまっていて、あんなに楽しみにしていたのに、と思うとメリーは悲しくなってきて、そのまま泣き出してしまいました。
ベランダで泣いているメリーを見て、お母さんが駆け寄ってきました。メリーが泣きじゃくりながら靴下のことを説明すると、お母さんはメリーを優しく抱きしめて
「ごめんね、楽しみにしていたのに」
と言いました。お母さんはそのままメリーを抱き上げて寝室に連れて行くと、クローゼットを開けてこう言いました。
「今日は靴下は履けないけれど、メリーにはこんなに沢山大好きな服があるわ。さあ、今日のピンク色を選んで。そしたら一緒に、新しいピンクの服を買いに行きましょう」
新しいピンクの服を買ってもらえるなんて、今日はなんて素敵な日なんでしょう。メリーはさっきまで泣いていたことなんかすっかり忘れて、お母さんと一緒に服を選び、支度を整えて家を出ました。その頭には、ピンクのリボンのついた麦わら帽子がちょこんと乗っていて、リボンはメリーの気持ちと同じように、嬉しそうに風に揺れました。

内容としては前者の例文と同じものだが、後者の文章では使われている技術や知識といったものが違う。語彙の豊富さや文法のみならず、話に「オチ」がついているか否か、といった部分も「物語を書く技術」だ。
このように、小説であっても「誰でも書ける」ものと「誰でもは書けない」ものが存在する。それは、ウォーターゴリラさんが「簡単な花の絵」なら誰でも描ける、と言うのと同じことだ。小説や絵ばかりではない。ボールを投げるという行為ひとつ取ってみても、「投げる」だけなら誰でも出来るだろう。しかしより遠くへ、より速く、狙った通りに投げるには、技術や知識が必要だ。
「ボールを投げるのは誰でも出来るよ!」
「絵は誰でも描けるよ!」
「小説は誰でも書けるよ!」
どの言葉も、嘘は言っていない。やろうと思えば、始めることはそう難しくない。ボールがあれば、紙と鉛筆があれば、あるいはスマートフォンやタブレットやパソコンがあれば。誰でも始められることだろう。だが、目指す場所が「ただボールを投げる」なのか「豪速球でプロ野球打者からストライクを取りたい」なのかによって、「出来る」と言えるかどうかは変わってしまう。

どうして議論の的になりがちなのか

話は少し逸れるが、何故「小説なんて誰でも書ける」という言葉は議論の的になりがちなのだろうか。特に同人というアマチュアの趣味の世界でこれが取り沙汰されがちなのは、いくつかの複雑な理由が絡み合っているように思える。
最も問題視されるケースとして、「小説をまったく書いたことのない人が、小説を書いている人に言う」という場合がある。これは別に小説でなくとも失礼な行為だと分かる人類も多いことだろう。自分がやったことのない、出来るかどうかも分からないことを、簡単に「出来る」と断言することは幼稚なおこないである。まして相手がその道で努力している人であれば、相手への尊敬に欠けるというものだ。この場合当然ながら、言った人は言われた人に良い印象を持ってはもらえないだろう。
「絵なんて誰でも描ける」という言葉は、描かない人から描く人に言われることはあまりない。それは絵というものが一瞬で多くの情報を人に与え、そこに何らかの技術や知識が使われているということが分かりやすいからだ。そして、インターネット上で多くの人が目にする「イラスト」や「漫画」は、大抵の場合多くの技術や知識が積み重ねられた作品である。そう、ゲストゴリラが描いてくれた「簡単な花の絵」のようなものは、たとえSNSで流れてきても、「絵」と認識されることすらない場合も多い。多くの人がイメージする「絵という作品の基準」を満たしていない、と判断されるのだ。
小説は、「簡単な花の絵」同様の「なつやすみのにっき」のような文章であれば誰でも書ける。それを「小説」の基準点とするなら、「誰でも書ける」ことになるだろう。だが相手がどの程度の基準を目指しているのか、どのくらいの実力者なのかが分からない場合、簡単に口に出すのは賢明とは言えないだろう。
たとえば貴方の目の前に「プロの小説家」がいるとしよう。貴方はその人がプロの小説家で、ベストセラーを出していて、有名な作家だと知っている。その人に面と向かって「小説なんて誰でも書けますよね!」と言えるだろうか。これを言ってしまう幼稚な人類も世の中にはいるらしいが、ジャングルに住まうアニマルであればきっとおいそれと口には出来まい。それは何故か。
話題の基準点が「プロのベストセラー小説」になる、と想定されるからだろう。
もしそんなことをうっかり口に出して、「じゃああなたも私の書いた本と同じくらい売れる本書けますよね~」と言われた日には、言い返せる自信などない、という方も多いのではないだろうか。
アマチュアの趣味の世界には、様々な人がいる。中にはプロの作家が趣味で、ペンネームを変えて発表している作品というものもある。巨大ジャンルや旬ジャンルなどという場所であれば特に珍しくもないことだ。この広いインターネットの海で、そういう人が貴方の周りにいないとは、誰も断言出来ないのである。

次に「書いている本人が謙遜で言う」場合がある。周りの人を慮り、へりくだるというのは決して悪いことではない。しかし今回の質問者さんのように、自分には出来ないことをしている人を見て、すごいと思っている人というのも世の中にはいるだろう。そうした人にとっては、「自分には出来ない」時点で「誰でも出来る」ことではないのだ。謙遜の場合あまり激しく議論されることはないだろうが、それでもその言葉を聞いて質問者さんのように心に何かを抱える人もいるかもしれない。たとえば「プロの小説家」が同じことを言ったら、きっと嫌味に感じる人もいるのだろう。謙遜も過ぎれば嫌味、という言葉もある。聡明なアニマルの皆様には、用法と用量を守って的確にお使い頂きたい。

そしてどちらのケースにおいても、「その人が想定している基準点がどこなのか」という部分が食い違っているため、心のすれ違いが発生している。
もう一度、ウォーターゴリラさんの描いたふたつの花の絵をご覧頂こう。

画像4

「簡単な花の絵」を想定している人は、「絵なんて誰でも描ける」と言うだろう。
「牡丹の花の絵」を想定している人は、「絵を描くのはすごいことだ」と言うだろう。
「牡丹の花の絵」を描いた本人が、謙遜して「こんなの誰でも描けますよ!」と言うこともあるだろう。
その言葉を見て、「誰でもは描けないよ」と言う人もいるだろう。
更には、「牡丹の花の絵」よりももっとすごい絵を実際に描ける、という人もいるだろう。
心の中の基準点がどこなのか、という一点で意見が食い違うため、これらの人々が「誰でも描ける」という言葉を目にした時の気持ちは変わってしまう。そしてその気持ちの摩擦が、議論に発展することもあるのだろう。
ジャングルには様々なアニマルがいる。インターネットの海では特に、自分が直接的に関わりを持っていない人にも自分の発言を見られたり、議論される場合もある。ゴリラの皆さんにはこのことを忘れずにいてほしいと、ゴリラは思う。

一人のゴリラとして

しかし名もなき一人のゴリラの立場として言わせて頂けば、「小説なんて誰でも書ける」という悪魔の甘い誘惑は是非とも信じて頂きたいところである。
ウォーターゴリラさんも、最初から「牡丹の花の絵」が描けた訳ではない。最初はそれこそ「簡単な花の絵」に毛が生えた程度のものしか描けなかったそうだ。しかしウォーターゴリラさんは絵の練習を何年も続けて、画像処理ソフトの使い方や設定を学び、自分の好きなモチーフを沢山描いてみたりなどチャレンジを続け、あの「牡丹の花の絵」を描けるようになったのだという。
小説も同じだ。
最初は簡単なもの、それこそ「誰でも書ける」と思ってしまうような小説しか書けないかもしれない。けれど、練習を続けて沢山の知識や技術を蓄え、怖くても大勢の人に見られる場所に発表し、チャレンジを続けていけば、いつか自分が書きたいと願う理想の小説が書けるかもしれない。貴方の作品が他人の心を動かし、読んだ人の人生を変えることだってあるかもしれない。この名もなきゴリラのnoteは、そうしたアニマルの夢を応援するnoteである。もしまだ小説を書いたことがないという方がこれを読んでいらっしゃるのなら、ゴリラはにっこり笑ってこう言おう。
「大丈夫、小説を書くのはとっても楽しいし、誰でも始められるからチャレンジしてみようよ」
さあ、書いてみよう。書き続けよう。ゴリラも未だ道半ばではあるが、それはこのジャングルで同志たちと共に歩んでいけるという、素敵な未来を確実に約束してくれるものだ。小説は、誰でも気軽に始めることが出来て、とても楽しい。それだけは紛れもなく真実だと、ゴリラは信じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?