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他人と比較してしまって書き出せない時

Q.いいネタを思い付いた、と思ってもなかなか作品にすることが出来ません。自分よりも小説や絵が上手な人がいくらでもいて、このネタもそういう人がかいた方がいいに決まってる、と思ってしまいます。他人と比較しても仕方ないと分かってはいるのですが、上手な人は本当に大勢います。何故自分が書く必要があるのか、と考えて筆が止まってしまいます。どうしたら他人と比較して足踏みをせずにいられるでしょうか。

A.一番ではないものは必要ないと思いますか?

この世界には「数」という概念がある。人類の方が発見した概念らしいが、これは大変便利なものである。獲物が一頭なのか二頭なのか、バナナがあと何本残っているのか、数をかぞえればはっきりと分かるし、数字で言えば他人に伝えるのも簡単だ。そしてこの「数」という概念は、物事の順序を表すのにも使われている。
一番走るのが速い人、という言葉には「一」という数が書かれている。二番、三番、というように数字を振ることで順序を表すことが出来る。しかし、このジャングルにおいて「数」は時に何の役にも立たない。むしろ数をかぞえることが邪魔になって狩りに失敗する場合もあるのだ。質問者さんも、数や順序に心を囚われ狩りが出来なくなってしまっているのかもしれない。
そんな時はまず考えてみよう。
世の中には「一番」がある。一番お金持ちな億万長者とか、一番ゴールを決めたエースストライカーとか、一番フォロワーの多いインフルエンサーとか、一番ブクマの多い作品とか。いろんな一番がある。無論、一番になった人はその数字に相応しい努力や苦悩の果てに数字を獲得したのだ。それは素晴らしいことであり、多くの人が羨んだり憧れたりするのは当然だろう。二番の人は一番の人を羨み、三番の人は一番と二番の人を羨む。順序が数字になって表される時、誰もが誰かと自分を比較する。もし50200番だった場合、自分より上の順位にいる50199人全員が「いいなあ! すごいなあ!」の対象になるわけだ。つまり、一番になった人以外は全員「自分より上の比較対象」がいるのである。何番だろうが順序がある以上は必ず数字がついてくる。では数字が見えなければ安心なのかと言われると、見えないものが逆に気になって自分から見に行こうとする人もいることだろう。自分がどの数字を割り当てられているのか、人類は無性に気になってしまうものなのだ。そうして数字を見ては誰かを羨み、時には落ち込み、足踏みをしてしまうこともある。誰もが経験することであり、特に珍しいことでも何でもない。こう聞くと、一番以外は何の意味もないように感じる方もいるだろう。一番になれなければ永遠にこの苦しみから解放されないのか、と。
だが、果たして「一番」以外のものには何の価値もないのだろうか。
もし順位を競い合うことがルールとして定められたコンテストなどであれば、全員が一番を目指すことになる。そしてルールの中に「一番以外は落選」と書かれていれば、そこでは残念ながら二番以降の選手に価値を見出す人は少ないだろう。だが実際には、コンテストなどであっても二番や三番の選手にも色々なチャンスがある。四番以降であっても同様だし、たとえ落選したとしても「個性的な選手だ、注目しておこう」と審査員は言うかもしれない。
これが創作というものになれば、話はもっと複雑になる。投稿サイトなどで一番ブクマの多い作品を見て、「すごいのは分かるけど、好みじゃなかった」という経験はないだろうか。これは何もアマチュアに限った話ではない。教科書に載っている芸術作品はどれも世界的に評価され、何億円もの金額で売買されるような超有名作家の作品だ。だが、教科書に載っている絵を見て「これ好きだな」「これはあんまり好きじゃないな」ということは誰にでもある。創作に限った話でもない。有名なスポーツチームに所属する強豪プロの試合を見たって、「すごいけどラフプレーが多くて好きじゃない」とか「一番でもないし目立たないけどこの選手のプレーが好き」とかいう人は、必ずいる。
価値を量るのに、数字しか使わないのは愚かな文明の末路である。数字だけでものの価値を全て推しはかることは絶対に出来ない。何故なら、価値とは人の心に拠るものだからだ。何に価値を感じるかはその人の心が決めることだからだ。誰かの心を否定することは簡単だが、否定したところでその人が感じた心が消える訳ではないからだ。
数字は便利な道具でしかない。便利な道具を道具として使っている内はいいが、道具に翻弄され、その道具を使ってやりたかった目的を果たせないようでは本末転倒だ。
一番の人以外は、必ず自分より上の比較対象がいる。だが、一番以外のものに価値がないのかは、貴方が勝手に決めていいことではない。999人が「価値がない」と言ったとしても、1人が「これがなくては生きていけない」と言うのなら、それはたった1人にとって999人の意見よりも価値のあるものになる。そして、そういうことがあちらこちらでごく普通に起こるのが「創作物」というものである。

思い付いた「ネタ」を手放せるか?

さて、質問の方に話を戻そう。
質問者さんが思い付いたネタがどんなものか、ゴリラには分からない。誰でも思い付きそうないわゆるテンプレネタかもしれないし、独創的で他の人は中々思い付かないネタかもしれない。ジャングルは広大なので、独創的なネタだとしても他に思い付く人がいる可能性はある。だが、同じネタを思い付いた人がいたとしても、それが実際に作品になってジャングルに公開されているのを貴方は見たのだろうか? もし見たのならそれは「ネタ被り」である。これについてはまた別の問題になるので後述しよう。もしまだ見ていないのなら、「同じネタを思い付く人」はいても「そのネタを作品にした人」はまだ貴方の観測範囲に現れていないことになる。貴方がそのネタを作品として完成させれば、少なくとも貴方の見える範囲で貴方は「初めてそのネタを作品にした人」になるのだ。
しかし、質問者さんはここで大きなハードルを感じている。
「でも、いくら誰も書いてないネタでも自分より上手い人が書いた方が……」
ではそのネタを貴方の尊敬する神作家さんに提案してみてはどうだろうか。
昨今はマシュマロなど匿名のサービスを利用して、憧れの作家さんにも手軽に一言送れる時代である。せっかくの機会だ、「このネタ書いてください!」とマシュマロにでも送ってみればいい。しかしネタを送ったとして、その作家さんが果たしてそのネタを書いてくれるだろうか? じっくり考えてみてほしい。神作家さんには自分の書きたいネタが山盛りあって、送られたネタを書く時間はないかもしれない。あるいはその作家さんの好みとは違うので書いてはくれないかもしれない。だとすれば、どんな神が何人いるとしても、そのネタを作品としてこの世に生み出せるのは世界で貴方だけ、ということになる訳だ。
もしくは「いくら神作家さんだからって、自分のネタを使われてしまうのは嫌だ」という気持ちのあるゴリラもいるかもしれない。というか普通は神にネタ送ってみたら? と言われてホイホイ送れるものではないとゴリラは思う。
だって、そのネタを思い付いたのは貴方だ。
それは貴方の人生と経験と知識、今まで生きてきた道筋があってこそ頭の中に出てきたものだ。貴方とまったく同じ人生を歩んでいる人はこの世にいない。だからそれは貴方のものだ。たとえ似たようなことを思い付く人がいたとしても。限りなく似た人がいるとしても。貴方が思い付いたそのおはなしは、貴方の頭の中にしかない。神と呼ばれるような作家さんであればあるほど、こういうこともよく理解しているはずだ。神の周りには更なる神がひしめき、そこではハイレベルなジャングルの決闘が繰り広げられているからだ。その神だってきっと「自分より上の比較対象」と自分を比べてしまって、落ち込むことはあっただろう。もしそこで書くことをやめていれば、神と呼ばれるような作家さんになることもなかったのだろう。
勿論、世の中にはネタを提供して作品を作ってもらう「リクエスト」や「プロット・下書き交換」といった創作もある。だがそういう創作形態を楽しめるのは双方の合意があってのことだし、大抵は一時的なものだ。貴方がこの先思い付くネタ全てを神作家さんに書いてもらう、などというのはいくらなんでも無理があるとお分かり頂けるだろう。
貴方のネタは貴方のものだ。もし合意の上でリクエストをして書いて頂けたならそれは喜ばしいことだが、そうでないなら、そのネタは貴方が書くしかない。貴方の頭の中にしかない、他人には見えない幻のような光景を、貴方だけが他人に見える「作品」という物体にすることが出来る。貴方以外には誰にも出来ないのだ。
世の中に、自分以外の人でも出来ることはいくらでもある。だが自分にしか出来ないことはそう多くない。大自然の厳しさを知っているアニマルの方なら身に染みていることだろう。貴方にしか出来ないことに、是非チャレンジしてもらいたい。

ネタ被り

仮にそれが誰でも思い付くようなネタだったとしよう。検索したら同じような内容を話している人が見付かるかもしれないし、同じネタの作品がもうあるかもしれない。だが、シーンや台詞や言葉選びに至るまで貴方とまったく同じものを作り上げている人はまずいないことだろう。それが貴方よりも小説が上手い人だとしても、貴方の頭の中にあるものを一から十までトレースしたような作品を作ることはないだろう。同じようなネタでも、貴方の頭の中にはその作品には書かれていないシーンがあるかもしれない。貴方が自分のネタを作品にしたい、と感じるなら、理由はそれだけでいい。

作品にするということ

そもそも、妄想を作品に仕上げるということはそう簡単なことではない。「作品」の定義も人によって千差万別、どこからを「完成された作品」と呼ぶかは定義しようもない。だが「頭の中でただ考えている」ことと、それを「言葉や絵など他人に伝えるために出力する」ことの間には隔たりがある、ということは誰でも理解出来ることだろう。そして、出力の際に掛ける手間と完成までのこだわりや情熱、技術や知識の豊富さなどが作品の完成度を決める。
SNSに140字程度の文章で、親しい人や近い趣味の人にだけ伝わるスラングなどを用いて、他人が読むことをあまり考えず分かりやすさなども考慮せずに妄想を出力することは、それほどハードルが高くない。だからSNSでは特に作品を作らない人も「思い付いたネタ」を気軽に出力することが出来る。素晴らしい時代になったものだ。
コミック制作用のアプリケーションやタブレットなどの機材を用意し、トーンや背景やペンなどの素材を試しては自分に合うものを揃え、苦悩しながらプロットやネームを切ってペン入れをしてベタやトーンワークをして、それを画像に書き出してネットにアップロードすることは、SNSの140字に比べればハードルが高いと言えるだろう。そしてこうした作業のひとつひとつを支えるのは、日頃からその人がこつこつ描き続けている「絵」という表現に対する試行錯誤の積み重ねだ。
テキストエディタに向かって思考を整理し言葉を選び、多くの文字を書きながら没にしてはまた書き、物語としての表現方法を模索しながら伝わりやすさを考慮し、出来るだけ多くの人に伝わるように表現を精査し、読んだ人がより面白いと感じて読み進めてくれるために構成を工夫し、書き上がればじっくりと時間を掛けて誤字脱字をチェックして、ネットにアップロードすることも、SNSの140字に比べればハードルが高い。こうした作業のひとつひとつを支えるものも、日頃からその人が積み重ねてきた読書や観劇の経験、物語と言葉というものへの造詣の深さ、小説という表現媒体へのこだわりなどの為せる業だ。
「作品にする」というのは、それだけでハードルが高い。しかも「しよう!」と思った時のハードルばかりでなく、日頃積み重ねてきた経験や知識が直接的にものを言う。地道にこつこつと何かのハードルを越え続けていなければ実力は上がらない。
漫画や小説ばかりではなく、他の様々な表現方法でも基本的には変わらない。どんな媒体にも妄想を作品にするには多くのハードルがあり、ジャングルの道は険しい。
これだけのことにトライしてみようと思うだけでも、普通に考えればすごいことだとは思わないだろうか。
そして、こうしたことにトライしてみて途中でやめてしまう人や、尻込みして立ち止まってしまう人がいるのも無理はない。思い留まって「もっと自分が得することに時間を使おう」と考える人がいるのも仕方ないことだろう。何しろこれだけ苦労して努力しても、誰一人としてその作品を読んでくれないかもしれないのだ。創作とは、そういうジャングルである。
もしそれでも自分の妄想を作品にしようと思えるのなら、貴方は立派にジャングルのゴリラである。胸を張り、このジャングルを戦い抜くための武器を手に旅立ってほしい。質問者さんが「神」と呼ぶような人だって、生まれた時から神な訳ではない。今の質問者さんのような状態を過去に乗り越えたのかもしれないし、激しい戦いや恐ろしい悩みがあったかもしれない。今も戦い続け、必死でもがいているのに、そうは見えないだけなのかもしれない。誰もが己の武器を手に携え己だけの道を切り開くこのジャングルでは、誰もが常に野性を試されるのだから。
武器の作り方などはこのゴリラの記事でも色々紹介しているので、是非他の記事も読んでみてもらいたい。仮にジャングルを去ることになるとしても、それは貴方にとってジャングルが生きるべき場所ではなかったというだけのことだ。この辺も記事にしているので、参考になれば幸いだ。

終わりに

いかがだっただろうか。
ジャングルの大自然は厳しく、決闘は熾烈を極めるものだ。しかしこのジャングルで生きるのであれば、それは誰もが日々感じるものである。貴方の周りの神作家さんもきっと戦っている。どんなに優雅に見える水鳥も、水面下では猛烈な勢いでバタ足をしているのだ。どんなに生まれつき力の強いアニマルも、力だけで狩りが成功する訳ではないのだ。それぞれが自分にしかない戦い方と武器を磨き、ジャングルの掟に従って戦い続けている。その結果が、この素晴らしい緑豊かな森である。誰かがネットで検索窓に推しカプを打ち込んで作品を見られるのも、日々ジャングルで戦い続けるアニマルがいるからなのである。もしもこのジャングルの仲間として生きていくのなら、貴方もまたその豊かな森を生み出すアニマルの一員になる訳だ。作品を作ることは時に苦しく、厳しい。もしかしたら、せっかく作った作品は誰にも読んでもらえないかもしれない。誰も楽しんでくれないかもしれないし、楽しんでくれた人がいたとしてもそう言ってくれることなど稀だ。しかし作らなければその妄想は貴方の頭の中だけで消えてしまう。誰に伝わることもなく、伝わった人が楽しんだり喜んだりする可能性すら掻き消える。
作り出すことを恐れる気持ちは、誰にでもある。だからこそジャングルの生命は戦う。
どうかそのことを忘れずにいてほしいと、ゴリラは思う。

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