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靴紐と襟足

リモートワークで引きこもりっぱなしの私の脚はとうに浮腫み、パンパンだった。歩かなければ、と焦りつつも翌日の仕事のことを思うと全てが億劫になり、ベッドにダイブする習慣がついてどうにもこうにも動くことができない。

でも今日は華の金曜日。残業が終わった23時から散歩に洒落込んでも問題ない。

そう思いついてスニーカーの靴紐をきつく結ぶ。今日こそ歩いて運動不足を解消しようと決意した。重さを感じさせない軽量型のスニーカーと反比例するように私の足取りは重たかった。きっと先ほどまで呑んでいた酒のせいだろう。

明日は待ちに待ったお休み。何の予定もないからこそ呑み進められる。

家の近くの団地裏の公園まで来て、ベンチに3本目の飲みかけの缶チューハイを置く。ブランコでも漕ごう。大の大人がブランコで遊んでいるのを見られるのは恥ずかしい。街頭の無い月明かりが弱く差し込む薄暗い公園で良かった。キコキコと金属音を立ててブランコを漕ぐ。ぐわんぐわんと視界が揺れ、酩酊に拍車がかかった。上がる体温と酒気に眩暈がする。

それでも細心の注意を払って人目が無いか辺りを見渡しながら漕ぐ私は、光る目線を見逃さなかった。2点の妖しい眼がこちらを覗いている。

猫だ。黒猫がこちらを見ている。しなりしなりと上品に一歩ずつこちらに近づいて来る。

『風呂に入っていないんだろう。汗のにおいと頭のフケが目立つよ。』

前言撤回、案外失礼な猫だな。

「いきなり何なの?野良猫はいいよな。好き勝手生きてて。毛づくろいで汚れが取れるんだから風呂に入る必要もないでしょ。エサをくれる優しい近隣住民が居て、媚を売っていたらあっという間に寿命が尽きてくれるよな。こちとら人間様の世界では、平均寿命まで生きたくないのに尊厳死なんて認めてくれないんだ。」

『好き勝手生きているのはお前じゃないか。27歳にして転職3回目のフリーター。中途半端に働いたふりをして、会社が譲歩してくれた条件も蹴って、不満たらたらまくしたてる生活を送っているんだろう。そのむくんだ脚が全部物語っているよ。そのうちにでも王子さまが迎えに来てくれるなんて思ってるんじゃないだろうな。今は令和、そんな夢物語はさっさと捨てちまいな。』

「じゃあ今更どうしろって言うんだよ。」

『全部リセットすればいいんだよ。ここに居合わせたついでだ、連れて行ってやるよ。』

猫は先ほどと変わらない上品な足取りで私の前を歩き始めた。言葉遣いはひどく下品なのに、所作は煌びやかでついつい見惚れてしまうように尻尾を揺らしながら歩くもんだ。

「全部ちゃんとやろうとしてきた。会社に遅刻欠勤をしたこともないし、他人様に迷惑をかけるような犯罪を犯したこともない。なのになんで。」

『その被害者意識が問題だって言ってるんだよ。最低限のことをして、他の誰もが通る苦労を見ようともしない。あわよくば…なんて幻想に浸って年だけを重ねて、何も知らないままに育った子供のような成人。それが紛れも無いあんたの正体さ。アダルトチルドレンって呼ばれる存在。あんたが憧れている人間は何倍も我慢をして今のステータスを享受している。甘ったれてるんじゃない。もう他の道はないさ。』

猫は公園を抜けてある団地の前で踵を揃えた。その浮腫んだ脚で登れるかい?と言いたげな目でこちらに一瞥をくれてから、ひょいと一段いとも簡単に階段を登る。団地にはエレベーターが付いておらず、私の脚は一段一段と登る度に汗をかく。浮腫んだ脚の膝は今までの無精を呪うように重い。

「知らない人の団地に階段といえ勝手に上がりこんじゃっていいの?」

『今まで他人の団地の階段に登ること以上にマズいことをしでかしたことはないのか?』

「質問に質問で返さないでよ。世間様に顔向けできないことなんてしたことない。」

『友達のマンガを借りパクしたことも、バイト先の金をちょいとトンずらして飛んだことも、リモートワーク中に昼寝してることも全部なかったことにしてんのか。気にもしていないのか。呆れちまうな。』

「そんなこと誰だってやっているよ。ほとんどが時効でしょ。てかなんであんたなんで私のこと知ってるの?他人でしょ。人ですらないくせに偉そう。神様かなんかの使いのフリをしていてもただの畜生だよ。私が思い切り蹴り飛ばしたら即死する弱い生き物に過ぎないことわかってる?」

『その浮腫んだ脚で蹴りを入れるだって?ひょいとかわせるさ。笑わせるなよ、もう膝もくたくたの癖に。』

4階の踊り場に差し掛かった時に右足の靴紐がほどけた。固く固く結び直す。最上階の5階を前にして涼しい風が汗ばんだ頬を掬う。
『あと少し、もう少し。最後くらいちゃんとしないとな。』

団地は5階建てだと思っていたが気づいたら、屋上にいた。明かりの無い中、月明かりが貯水槽を照らしている。遮るものが無くなった屋上の夜風は肩まで伸ばしたウルフカットを撫でるように心地良い。団地の住民はみんな眠ってしまったのだろうか。屋上は都会の喧騒を、ウザったい仕事のメールの着信音を全て消してくれるようだ。

風呂に入っていない私は野ざらしの屋上に寝転ぶ。都会では綺麗な星空が見えない。その代わりに人工的に光る高層マンションが何棟も見える。新宿方面はことさら明るかった。docomoタワーの時刻は相変わらずずれている。一生縁のない建築物の光を見ながら言った。

「私の人生、どこで掛け違えたんだろう。」

猫は一呼吸置いて答えた。
『今更になって間違えた箇所を聴いてどうするつもりだい?バックトゥザフューチャーはフィクションだよ。タイムリープなんてできないんだから。』

「そうなんだけど、知りたいじゃん。」

『それなら自問自答してみなよ。反省したことが生かせるなら、どうにかすれば良いし。できないんだったら次の人生があるかもしれないぜ。』

必死に考えた。履き違えた人生の分岐点はどこだろう。そう簡単に思い出すことなんてできないに決まっている。人生の失敗点なんて両の手を合わせても足りそうにない。そんな中でも最も間違ったこと…

2年前、同棲していた家に帰った。11月1日午前7時に。渋谷のハロウィンで浮かれてテキーラをしこたま浴び、流行りのアニメの主人公のコスプレをした男と一晩過ごして。家に着いても呂律が回らず、洗いざらい吐いた。吐瀉物と昨日の夜に起こったこと。彼は呆れて、そしてずっと黙って私の話を聴いていた。男の人が涙を溜めてそれが静かに零れるのを初めて見た。私がしゃくりあげながら話しているのを聴くと彼は冷蔵庫からポカリスエットを持ってきてくれた。キャップまで外して飲みやすいようにストローを刺して。底抜けに優しい人だった。「別れて。」そう口をついたのは私の方だった。彼はただ頷くだけで何も言わずに泣いていた。

「あの夜が無ければ幸せだったかもしれない。傷つけた心に時効なんてない。私は十分悪人だった。」

『やっと思い出したか、気分はどうだい?』

「最悪の気分さ、もっと強い酒が欲しい。」

『また酒に呑まれてあの夜を忘れようとするだけなんだな。』

最後の一滴まで呑み干し、3本目の缶チューハイをぐしゃっと握りつぶす。
「もう誰も傷つけない方法ってない?」

『目の前にあるじゃないか。わかっているんだろう。自分がどうすべきなのか。』

地面から遠のいた屋上の端に立つと強風が前髪を煽る。肌寒いが頬だけが熱くほてっている気がする。酔っていても突き付けられる現実が今ここにある。きつく縛っていた靴紐をほどき、軽いスニーカーを正しく丁寧に並べる。行き場のない想いと逃避行に出かける。生ぬるい風が背中を押した。

目が覚めると頭が割れるように痛かった。コンクリートの上で寝ていた物理的な鈍痛と、消化しきれなかったアルコールの鋭角な痛みが同時に襲ってきた。辺りを見渡すと錆びついた貯水槽があるだけでもうあの上品に歩く猫はいなくなり、足のむくみがごっそり取れていた。昨夜のことを思い出す。一歩一歩駆け寄った屋上で見た高層マンションの明かり。肌寒い金木犀の香り。飛び降りようとした瞬間、後ろ髪を引かれた。その記憶だけが鮮明に残っている。

彼が毎晩ドライヤーをかけてくれていたウルフカットの伸びきった襟足。1本1本をまるで私自身を大切にするように櫛を通してくれた。乾いた髪に椿オイルを塗り込んで整え、同じ枕で寝た。

別れた後も漠然と伸ばし続けて今では伸びきってしまった手入れの行き届いていない髪が数本そこに落ちていた。どこまでも優しい彼に救われたんだろうか。私は靴紐をきつく結び、転んでしまわないようにゆっくりと階段を降りる。

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