受動的有権者の無力感-蓮舫氏落選に寄せて-


一応筆者は立憲民主党の支持層ではあるので今回の都知事選は非常に残念な結果であった。
というのも今回の選挙は自民党裏金問題における世論の自民党に対する批判、疑念を追い風として受けられる「はず」の選挙であったからである。
しかし結果を見てみると現職の小池氏に倍近いスコアをつけられての敗戦である。
しかも最大野党の有力候補でありながら、石丸氏と得票数で2位争いを繰り広げてしまっている。
これを完敗と呼ばずしてなんと呼ぶか。
いずれにせよ立憲内部や社会学者、政治学者等がこの選挙の結果については要因や分析等をするだろうしその手のことはこの文章では行わない。
むしろ僕はこの敗北におけるなんとなくの気味の悪さ、それはどちらかといえば立憲がどうも有権者、というものを見れてないのではないか、というところから来る気味の悪さであり無力感、について書いてみたいのである。

最大の問題点とはおそらく立憲支持層、ないし蓮舫氏に投票した受動的有権者の無力感ではなかろうか。文字通りの意味で投票した「だけ」では何も変わらない、という無力感である。
蓮舫氏には民意が委託されなかった、とも言える。
受動的有権者とはいわゆる政治活動、ビラ配りや選挙活動の支援、議員や代表に直接働きかけるロビイングなどをせず投票だけ行く有権者である。僕もその一人だ。

少なくとも首長の決定という政治過程、つまり選挙においては投票しかその実現手段はない。一般的な有権者は代表と行政機関に政治過程を委託していると言える。

この選挙に蓮舫氏は負けてしまった。

これは民主主義のやり方が悪いのだろうか?
あるいはルールが。ルールをハックするものがいたのか。それとも有権者がバカなのか。

なるほど、敗北の理由には色々考えられるだろうがこのとき一人一人の有権者という存在は見落とされていないか。

本当の民主主義とは何か、そんなものがあるのか。
左派、リベラルは本当の民主主義、を思い出したかのように叫ぶのだがそれは効果がないと思われる。
しかし、それを冷笑主義的に一笑に付すのではなく、むしろそれを地道に実践していくことでしか、それは選挙のときにスローガンで叫ぶ、ということではなく、諸々の政治過程なり、行政執行に対して民主主義的な在り方を模索して関わり、それを世間に提示するということでしか社会実装できないのではないかと思う。
加えて本当の民主主義を名乗るのであれば他候補への毀損は謹むべきであろう。討議的(=闘技的)民主主義において、政治が敵/味方に分かれるものであっても他者へのリスペクトの感覚は根底になければならない。
問題の一つは現状そのような道筋や受け皿は示されておらず、かくして受動的有権者は選挙が終わると次第に本当の民主主義を忘れ、次の選挙が始まると思い出すことである。
しかし、もう一つの問題、こちらの方が深刻であるが、本当の民主主義はコストがかかるものであり、かつそれを払いたい人はさしていないのではないか、ということだ。
このコストを極限までシュリンクした存在が受動的有権者だと言える。
投票とは委託である。それは政治の、民主主義の委託である。だからその後の政治過程を有権者は投票という形のコストでしか支払わずに済む。それが行政執行という形で返ってくるかもしれないにせよ。

それで最初の話に戻るのだが受動的有権者の無力感が問題なのは、最小コストではなんら利益が得られなさそうだ、という実感につながっていくからだ。それは国政選挙において連戦連敗を続ける(そもそも勝利のラインがあるのか?)立憲支持層において顕著ではなかろうか。
それは結果的に本当に政治を変えて欲しければさらなるコストを要求する政党になってしまっているという事態なのだ。

もっとも政治参加にコストがかかるのは当たり前で政治変革を求めるなら相応のコストを払え、というまっとうな批判がくるだろう。
しかし、このとき現状維持を望むものと変革を望むものとでは政治参加のコストにおける不均衡が起きている。現状維持派はより少ないコストですみ、変革派はより大きいコストがかかる。
では、このことは結果的に各人が払える政治参加のコストによってその関わり方が規定される、ということにはならないのだろうか。
また、そうであるとすればいままさに苦境にあり、政治参加のコストが投票という単位でしか払えない人は、より大きいコストが払えないがゆえに求める変革を享受できない、つまり苦境から脱出できないのではないだろうか。
それを極力均したのが選挙だと言えるのだが、しかしそれだけでは結果が出ないことが目に見えてしまっている。

それは受動的有権者、政治参加の最小コストしか払えない有権者、は無力だ、と突きつけてしまってるように思う。
今回の選挙運動における市民運動的盛り上がりに見えた面は実はこの問題の裏面、一見ポジティブに見えてしまった側面なのではないか。

もちろんこれは蓮舫氏に投票した一有権者から見た話であり、石丸氏や小池氏、安野氏などに投票した有権者にとって政治は変わりうる、あるいは自分の一票が民意に反映されうるものだ、という確信が得られることを否定するものではない。

しかし蓮舫氏に投票した有権者の目からすれば「政治が変わらなかった」という絶対的な事実は覆しようがないのであるからそうなのである。

もし選挙戦略なるものを見直すのであれば、自分たちがより厚い保障を求める人たち、それはつまり政治に対してより大きいコストが払えない人たちであるかもしれないことを意味する、に向けてアピールし、当選しなければならないという自覚があるのであれば、上で見た仕組み上動員型、能動的な態度が求められる政治参加ではない方法で本当の民主主義や従来の政治とは別の民主主義なり政治なりを構築しなければならない気がするのだがいかがだろうか。

今のような状況が続くのであればただただ虚しいばかりである。

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