『考える葦と為れ』 著者:9月のワンピース
「考える」
今この時代において、学校や会社に行くよりも、ドラマやアニメ、漫画を見るよりも、友達と遊ぶよりも、SNSを眺めるよりも、何よりも優先すべきことがある。それは、「考える」ことだ。これは決して大げさな表現ではない。思考は人間が持つ唯一の強さである。思考することによってここまで社会が発展してきた。人間に思考能力がなければ、私たちは一体どのような世界で暮らしていたのだろうか。現代では、目の前に娯楽が溢れすぎている。小さな画面の中に世界中のどれだけの人々の視線が向いていることか。娯楽は時に人々を日々の疲れから解放してくれる。娯楽が日々の活動の源になっていると言っても過言ではない。しかし、目の前に吊るされている娯楽ばかり熱中している間に物事は着々と進んでいる。正しく言うならば、娯楽を隠れ蓑にして、物事を静かに進めているといった具合だろう。普段、何気なく見ている娯楽の光が強ければ強いほど影は濃い。考えていれば誰でも理解できるが、考えていなければ後の祭り。何よりも危険なことは、失って気づく絶望よりも絶望に気づかないことである。絶望に気づかないことが最大の損失であるにも関わらず、商品の値段など物質的な損失ばかりを避けている。物質的な事柄だけを考えていると、見えぬものが本当に見えなくなる。現代においては物質的な事柄よりも見えぬものをどれだけ見ようとするかによってあらゆる道が決定される。気づくためにはまず疑問を持つことが大切だ。疑問を持つことは必ずしも否定的な行為ではない。何故、お金という実体のないものに人は執着するのか。常識とは何なのか。何故、安定を求めるのか。今、世の中では一体何が起こっているのか。何故、働いているのか。どのような世界を生きているのか。何のために生まれたのか。これ以外にも様々な疑問があるかもしれない。もし、考えても意味がないと思うのなら、何故、考えても意味がないと思うのかを考えてみるとよいだろう。純粋に考えてみれば、これだけ情報に溢れている世の中で考えずして一体どのように生きようか。世の中に全てが正しいという明確な答えはないが、もしかしたら自身の中に唯一の答えがあるかもしれない。それは苦労して考え抜いた先にしか存在しないだろう。前提として、人は何を考えるのも自由だが、時に考えるべきことがある。それは強制されたものではなく、内側から湧き出てくるものである。湧き出てくるものの種類は違えど、湧き出てくる源は全ての人が共通しているのではないでしょうか。考えていると不思議に思うが、考えなければならない方へと進んでゆく。考えなければならないことを考えたいと思えるようになれば、速度が指数関数のように上昇していく。反対に、扇動された情報のような考えなくてもよいことばかりに反応していると、上昇しづらいだろう。いや、むしろ下降する恐れがある。考えるためには情報を得る必要があるが、過度な情報を得ることによる過信は防ぐ必要がある。何故なら、考えるという行為は情報というフィルターがかかりやすいからだ。疑問に思っていても、公式に出されている情報だから正しいという判断は、考えるという行為に値しない。思考は人間が持つ唯一の強さだと先述したが、これには続きがある。思考は人間が持つ唯一の強さであるが、弱さに化けることもある。こちらの方が思考そのものの性質を表現するのに適切な言葉なのかもしれない。全てに当てはまる訳ではないが、個の中では強さが芽生えやすい。一方で、集団の中では弱さが芽生えやすい。弱さになる原因の一つとして、「反応」というノイズが多いことが挙げられる。人と関わる以上、反応は大事だが、世間の出来事よりも自身の感情に反応を示す方が考えるべきことに繋がりやすい。ノイズを正しくノイズだと判断できるなら集団に属していても情報の整理ができ、影響されにくい。ノイズはある意味では情報かもしれないが、考える際には除外した方が良いだろう。考えるためには知識が必要だが、知識は時に忘れてしまう。なので、考える事柄に関するある程度の知識は必要だが、それ以上に大切で考えるために必要なことは、考えることである。考えるためには、まずは考えなければならない。知識は考え始めて増えていくと思われる。考えるという行為はいちばんの自己投資であり、場所さえも問わない。また、考えること自体は平等であり自由である。社会を見ていると、自由を求めている割にはあまり考えていない。考えるとは、自由を求めるところにある。故に、常識という一種の偏見を通して真の思考はできない。考えることは私たちが思っているよりも壮大なものだろう。なので、考えなければ生命にも影響を及ぼす。例えば、ある人からリンゴを貰うとしよう。お腹が空いていたので、リンゴを貰い、家に持ち帰った後、全部食べる。食べた後、体の節々が悲鳴を上げ、最終的には命を失ってしまう。このような話は現実に起こるはずがないと思っているかもしれないが、本当にそうだろうか。何故、リンゴを無料で貰えるのか考えていれば、貰わずに済んだかもしれない。また、ここで言う「ある人」とは一体誰なのか考えていれば、など。考えることは、生きることである。また、考えることは守ることである。常識の中でしか考えていないと失ってしまうことがある。本当に大切なものがあるのなら、常識という実体のない概念を一度考えてみれば変わるかもしれない。本当に大切なものを見つけたいなら、考え抜かなければならない。人によって考える分野は異なるので、必ずしも考える必要はないが、現代において特に考えた方が良いと思うことは、医療と食、立っている場所である。医療は、もはや医者だけが考えることではない。肉体が存在している以上、身体の感覚や変化を知り、考える必要がある。これは食も同様である。食が体を作るため、何を食べるのかは自身で決定しなければならない。最後に立っている場所とは、言葉の通り、自分がどこに立っているのかを考えることである。何故、ここにいるのか、宇宙の中で私はどこに位置しているのかなど広大無辺かもしれないが、考えてみると如何に狭くて巨大な場所に存在しているのか内側から実感してくるだろう。自分が感じたことに対して一切の制限を設けることなく純粋に感じることは簡単に見えてとても難しい。世の中はノイズで溢れているからだ。しかし、難しさとは考えるためにある。難しさがなければ人間に思考能力が無くてもよいだろう。考えて考えて考え抜いた先には再び考えるという行為が待っている。考えずして明日をどう生きようか。明日はきっと考えた世界になっていると願うばかりだ。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
何か分からない出来事と対峙した時、とりあえず検索というお決まりの行動様式。気づけば脳がスマホのキーホルダーに。文明の利器を適度に使いながらも、自らの思考を目の前に広げよう。
このシンプルな目標を掲げて邁進します。
今まで書いた本はnote、Instagram、X、Tiktokに載せているので、見やすい媒体でご覧ください。
それでは。
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