支配欲

ReiwanonさんのRumbleを久しぶりに閲覧した。かなりコンスタントに翻訳動画をアップしてくれているようで本数が増えていた。
そのうち一本を拝見した。
https://rumble.com/v166am5-viruses-virology-and-anti-bodies-are-scientism-.html

内容は、感染症に関する話で、結局のところ「感染症についての学問」「ウィルス学」は破綻しているということを述べている。この外国人がどんな人物なのか、誰なのかわからない。これが正しいことなのか、嘘なのかは観る人の判断に任せるとして、
音声と翻訳を眺めながら

ああ、「コントロール」という言葉は
「支配する」という意味なんだなあ。。と思った。

私の場合 日本語で「コントロール」という時は、ただ何かを操作する、という意味合いに捉えていることが多い。

でも英語圏では
コントロール=支配 として使える言葉なんだなあ、と素朴に思った。

勉強して、人に「教えたい」と思った時。

そこには
「多くの人に認められて影響を与えたい」
という欲が根底ある思う。


「教える」と言うことの中に
「コントロールする」
「自分の言いなりに人が動くことが心地よい」
という考えが強く存在すると、問題な気がする。

「教える自分が偉い人のように思えて」
「自分像が肥大」した結果

たとえば、間違ったことを教えてしまっても撤回できない。
自分の言うことに服従しない人間が
「自分を攻撃する敵のように思える」かもしれない。



人は自由な生き物なので、
「コントロールする」=「支配したい」という考えは挫かれるのが道理だ。したがって強い「コントロール=支配欲」は ストレスのもとになる。
誰かを「コントロールしたい」という気持ちを手放すことこそが、
人間関係で苦しみを生み出さないコツなのではないか。

これは、私の個人的な考えであり、流儀であり、誰もに当てはまることでは無い。

現代社会では、
誰か(大多数)を操作し、
コントロールする方法を編み出して、それで仕事をして飯を食っている人が大多数なのかもね。



支配することが目的になってしまえば互いに不幸なのではないか?

今回のことを、私は
「感染症」という学問を、
誰かが誰かを「支配する」という手段として利用した
と言う感覚で眺めている。

そして
学問、学歴社会そのものが、
「コントロール」を主目的としたなりたちだとしたら、
それ自体がもうすでに破綻しているのではなかろうか。

(私の勝手な視点です)



人は謙虚になれ、という。
それは誰かにゆずった言い方をする、態度を見せるという
「スタイル」のことではない。

世の中には、まだまだ自分にはわからない物事があるかもしれないという、予めの態度。

「勉強したのだから、誰かよりも知っているはずである」
「だから、誰かを 私は支配する=コントロールする 権利がある」
という誤解。

この強烈な誤解を生み出す 構造。
それが、そもそも人類の、魂の成長を阻害する要因なのかもしれない。


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