吹奏楽と、種もまた良しの話

9番地と申します
どうでもいいんですが、最近あまりにも自然に薬を飲み忘れます

先日、リア垢のTwitterで中高時代のともだちである"死神と呼ばれし細い女"が、「なんだかんだで、吹奏楽のことばかり考えてた中高だったな」と呟いていました
同感の意をリプライで送ると、
「あなたが一番考えてたよw」
と返ってきました
思えば、ほぼ全ての課題をサボって、勉強なんて全くせずに、とても充実した時間を過ごしていた頃でした
授業中も休み時間も寝る前も、考えることといえば部活でした

そんな吹奏楽を中心とした、わたくしの音楽の歩みを、思い返して懐かしさに浸ろうと思います

小学生の頃は、2年生くらいからピアノとコーラスを習っていました
この頃は義務感に満ちた音楽でした
ピアノはレッスンの前日に、焦りながらやっと新曲をさらって、毎回のようにひどい有様でした
コーラスも、早く練習終わって、ゲームしたいな、しか考えていませんでした
学校の音楽の授業も、つまらないと思っていました

ですから、ピアノやコーラスでなく、部活が、わたくしの音"楽"に火をつけたきっかけだったのです

中学に入って、初めて部活体験でトランペットを吹いた衝撃は、今でも覚えています

入学したての頃、最初は正直「運動部じゃなけりゃ何でもいいや」くらいにしか考えてなかったので、とりあえず美術部を見に行きました
うちの学校は人数が少ないので、文化部は美術か吹奏楽くらいしかなく、実質2択でした
うちの学校の美術部は、ただのおしゃべり会でした
まあ、吹奏楽も見てから決めようかな、と、ともだちと話して、次の日に見に行きました

わたくしはその日、なぜか美術で居残りをさせられて、みんなより遅れて音楽室に行きました
途中から行ったので勝手も分からず、楽器の音が鳴り響く中、うろたえていると先輩が話しかけてくれたので、「あの、今きたんですけど」と言うと、今空いてるのがトランペットしかないから、そこに行けと言われました

言われるがままに、吹いてみました
初めて音が出た時、よく分からないけど、えもい(エモい)われぬ感動と楽しさがありました
ピアノや歌やリコーダーは、音を出すだけなら、簡単に音が出ますが、吹奏楽の楽器はそうはいきません
そこが感動の一つの要因だったのかな、と思います

「吹奏楽にしよう」と決めました
帰りに合流した他のともだちも、楽器を吹いて同じ気持ちになったようでした

そこから部活入ってからと言うもの、感動と楽しさの連続でした
いろんな楽器を吹く楽しさ
(最終的にわたくしはサックスになりました)
出せなかった音が出た楽しさ
音階が鳴らせるようになった楽しさ
曲を演奏できるようになった楽しさ
合奏できるようになった楽しさ

段階的に、新しいことができるようになり、次のステップには、より楽しいことが待っていました
合奏は何よりも一番楽しいです

部活の中で新しくUPというともだちもでき、先輩や後輩や先生と仲良くなり、それまでより人との強い繋がりもできました
音楽の授業も楽しく、ピアノやコーラスも少し熱が入るようになりました


中学は、割とゆるくでしたが
高校からは、真剣に音楽について考え始めました
コンクールで金賞を取るには
いい音作りとは
いい合奏とは
いい響とは


高校2年の時、本校初の地方大会出場を決めました
県大会で一位だったのです
しかし、この年は、わたくしにとっては腑に落ちない年でした

この時の指導教員TD先生が、なかなか訳ありで
音楽の先生ではないのに、吹奏楽の知識があり、指導も十分にこなします
音楽のSちゃん先生(本郷奏多似)もいましたが、基本的に舵を握るのはTD先生でした
この先生は、なぜこんな感じなのかというと、我が県の吹奏楽連盟のめっちゃ偉い人の息子であり、つまり、音楽の先生から見ても偉い人です
(もしかして、コンクールの結果に忖度が…まさかそんなことはないでしょうが…)

この先生は常に偉そうで、自分の思い通りにならないとすぐ不機嫌になりました
(ただ、わたくしのことは褒めてくれてました)
副顧問としてついていたsちゃん先生も変人で、この二人の先生は折り合いも悪く、我々生徒は振り回される感じでした

正直、大変な年でした


3年には、先生が変わり、新任のMl先生と副顧問の化学の、WW先生が指導を担当しました
MI先生は、新米ながらも知識と音楽に対する熱意は十分あり、わたくしたちと年も近いため、「一緒に頑張っている」感じがありました
WW先生は、音楽の指導はできませんが、生活指導の面でとてもお世話になりました
(一番お世話になった件は、別の記事で書けたらいいなと思っています)

二人ともいい先生で、折り合いもよく、この年は良かったです

MI先生が、一度めっちゃ怒った時がありました
「君たちは、コンクールを他人事のように見すぎている、誰かが金賞に連れて行ってくれるとでも思っているかのようだ」
自分にはこう刺さりました
それから、真剣に、自分たちで、いい音楽を作るんだ、というように音楽に向き合っていったと思います
その結果は、地方大会には行けずとも、金賞を取ることができました
2年の時の方が結果としたら良いけど、3年の方が、自分たちで勝ち取った、自分たちの成長に繋がった結果だと、感じます


その一方で
高校1年、別の音楽にも触れました
この時の音楽のKA先生が、歌専門の先生で、わたくしが音楽の授業のテストで歌った時、「結構声出るね、歌でコンクール出てみない?」と言われました
これも一つの経験と思い、出ることにしました
ただ、この時も自分のことなのに、どこかに先生が連れていってくれるかのような、甘い考えだったと、今感じます
練習期間は短く、この年しか歌のコンクールには出ませんでしたが、いい経験になりました
結果は1年生の中で真ん中ぐらいでした
審査員たちの感想は主に、「素直な声、これからに期待」という感じでした


歌は、自分で得意だと感じた事はありましたが、歌の先生から直々にそう言われて、嬉しかった記憶があります
また、自分ではさほど思っていなかった可能性を広げてくれたことにも感謝しています
しかし、広がっただけでわたくしが結局伸ばさなかったのには、悔やまれるところもあります

歌でなく、楽器の方も、褒められたことがあります
コンクールの直前になると、すごい先生(語彙力皆無)を金を出して呼んで、指導してもらうというフェーズがあります
高校3年の時に、わたくしはソロがあったのですが、なかなか上手く吹けませんでした
その時に来ていただいた先生にソロを指導していただき、言われた通りに吹いただけなのですが、めっちゃ良くなりました
その言われてできるところに、「あなたはセンスがある」と言っていただきました
正直に嬉しかったです

まあこのようにわたくしは、いい種だけど、芽を出すのを諦めた種です

中高時代の吹奏楽関係のお話は、これくらいですかね
もっと表現を凝りたいところがありますが、自分の文章表現力の無さに辟易しています

あとは、大学に入ってからの音楽ですが
ビートルズに出会ったり、作曲したりが主な関わり方です

新たに音楽を通したともだちは作れませんでした、ビートルズ好きはあまりいないんです
また、大学はアパート生活なので楽器が思うようにできませんでした
唯一始めたのはベースぐらいです、生音ならそんなにうるさくないので
最近は実家に帰ってきたので、ピアノやらトランペットやらの当時の感覚を取り戻すことから始めています
作曲はDTM、というよりSFM?(スマートフォンミュージックです、今作った)です
最初は3DSのバンブラというゲームで作曲を始めましたが、後にスマホのアプリに移行しました
特に作曲方など勉強してませんが、なぜか出来ています

と、いう感じです

形は変われど、ずっとわたくしの人生には音楽がついて回るでしょう
そう考えると、種もまた、種のままで楽しいのかも知れません
そもそも芽を出し咲き誇るのだけが人生でもないのかな、若輩者ゆえ分かりませんが

思い出して懐かしもうと思いましたが、自分が種だという事実をどう飲み込むのかという話になってしまいました

懐かしむにはやはり、具体的な曲が必要ですね
あの時のあの曲を、この後聴いて浸ろうと思います

では

おわり

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