役割
私には“夫”、“親”、“子”、“兄”などの身内向けの「役割」と、“社会人”、“先輩”、“後輩”、“プロジェクトマネージャー”、“プロジェクトリーダー”などといった対外的な「役割」を持っている。
また、過去には“学生”や“ギタリスト”なんかの「役割」を担っていたこともあった。
それらの「役割」は自ら望んでそれを引き受けたものもあれば、様々な要因によって勝手につけられたものもある。また、一時的にその「役割」に就いたり外れたりすることもある。
名刺に書かれるような「役割」もあればそうでない「役割」もあって、そういった様々な「役割」が私自身の周りをコーティングするように色付いているようなイメージだ。
もちろん、私だけでなく、誰しもが何かしらの「役割」にまみれた人生なんだと思う。
そして、その「役割」に割り当てられた役目を全うしていく人生。
わかりやすく言えば、“夫としての私”と“親としての私”は近いけれど別物の色で、それらと“会社員としての私”は少し離れているところにまた別の色で存在している。そのため、見る角度を変えれば、身内向けの「役割」の色は見えなくなったりもする。
私は今は、“自分が元々もっていた色”が分からなくなってしまっているように感じる。
例えば、私自身というものが何色かわからないが少しだけ色のついたビー玉のような球体だとしたら、その球体に様々な「役割」という色が上から塗りたくられているようなイメージだろうか。
内省しようとして、球体の内側から見たときは、あちこちが上塗りされた「役割」の色で仄暗い状態になっていて、根底にいる私自身の色に光が当たらずにいて、何色かがわからない。
また、球体の外側から見たときは、「役割」の色しか見えなかったり複数の「役割」の色が混ざり合っていたりして何色だかわからない状態だったりして、根底にいる私自身が「どういう色でありたいのか」が見えてこない。
「どういう色でありたいのか」を問われた際、何かの「役割」としての回答は出せるかもしれないけれど、果たしてそれが私自身の回答と同じかどうかは自信がない。
「役割」を手放したいと感じることも、偶にある。今、休職している身としては、“会社員”という「役割」を半分ほど手放したようなモノだろう。
会社の制度を利用していたり、健康保険組合などから傷病手当などを受け取ったりしていて、完全に手放したわけではない。
それを完全に手放してしまうことへの恐怖心があるからでもあるし、「役割」に戻ることができるという安心感を担保しているということでもあるだろう。
個人的に“会社員”という「役割」を持たないことへの恐怖心はそれなりに大きい。マズローの欲求階層説で言うと、安全欲求や親和欲求に近い感覚がある。
もちろん、“会社員”以外にも「役割」はたくさんあるけれど、仕事と報酬という面で考えると“会社員”というのは自分の中で大きな「役割」であると言える。
別に仕事と報酬を得るという本質からすると、“会社員”にこだわらなくてもいいのだけれど、今はそれが一番手っ取り早いと感じているのは間違いない。
名前もある意味では「役割」のようなものかもしれない。ここでは“からし”と名乗っているけれど、もちろん、それとは別に本名もあるし、ハンドルネームだっていくつかを使い分けている。
“からし”として書いているnoteと、別のハンドルネームで書いているXやInstagramやThreadsの内容(もしくは人格)は似ているようで違っているようにも感じる。
でも、どれも私自身が出力した言葉であることには違いない。
「役割」を纏ったときの私は、全て私であり、全て私のようなものであり、全て私ではない。
つまり、「役割」=「ペルソナ」であり、客観的なものであって主観は別に存在しているように思うが、未だに自分の中でそれははっきりとはしていない。
これまでの人生を“何となく”で生きてきたツケなのかもしれない。
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