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『部品メーカー残酷物語』第一話 ©︎99right

第一話「なんで私が、欧州駐在事務所初代所長なんですか?」

 最初に断っておくが、このnoteの記事は私と言う人間を知ってもらうために、多少の演出と脚色をお許しいただきたい。またなるべく時系列通り書きたいがたまには記憶違いで時間の前後がある場合は何分寛大なお心でご了承願う。

 今だから理解できるのだが、私は基本的に会社という組織の中で生きていくには全く向いていない星の元に生まれていたが、若い頃はそれに気付かずなんとか私も皆と一緒に会社という歪な世界で自分の生きる場所を築こうと虚しい努力をしていた。

 さてこのNoteでは、そんな頃に私が所属していた自動車部品メーカーにおいて経験した悔しくて、悲しくて、恥ずかしくて、そしてあまりにも残酷な話を思い出せる限り書き綴っていきたいと思う。

 198X年、四年制美大のデザイン科を卒業した私はとある自動車関連企業にデザイナーとして採用された。バブル景気も下火になり始めた頃だった。特にそのおこぼれに与った記憶は無いが世間は私達の世代のことを「バブル組」と呼んで蔑んだ。学力、成績、能力や人柄では無く、人手不足による数合わせで大量採用されたのだと諸先輩方からはそう見られていたのである。実際その会社にしては近年稀に見る新規大学卒の採用数で、確か三十人をゆうに超えていたと記憶している。ちなみにそのうちデザイナーで採用されたのは私を含めて三名だった。私には少ないように思えたが当時の人事部の芋洗係長が「俺はデザイナーのような穀潰しを三人も採るなんて金の無駄だと言ったんだ」と言うくらいに、当社にとってデザイナーと言う職種の地位は低かった。
 ちなみにこのブログに登場する人物の名前はすべてあだ名か伏せ字か仮名にさせていただく。
 芋洗係長は凸凹のジャガイモに黒縁メガネを掛けさせた様な顔で、私達新入社員の前では偉そうに振る舞うが、一度酒が入ると人の迷惑も顧みずに駅のホームでイモが出てくるエロい歌を大声で歌うのが好きなお茶目な人だった。
 ところで皆さんは「ガチャマン」と言う言葉を知っているだろうか? ○田□吉氏が考案した自動織機が一回ガチャリと音を立てると1万円売り上げるのでそう呼ばれたのだ。「ガチャマン」時代を経験した当社のお偉いさん方の半分以上はもう一度その時代が来ると信じて疑わないようで、酒が入るとすぐにその時代に自分たちがどれだけ羽振りが良かったかという自慢話を鼻高々に話していた。みんなその頃が懐かしく、出来ればその時代に戻りたいのだ。けれども実際は紡績業も製織業も東南アジアの発展途上国に人件費とコスト面で負けており、当社は新たな産業への転換を早急に図らなくてはならないそんな時期にあった。
 話は少し遡るが、○田□吉氏の長男○一郎氏は、当社で稼いだ金を元手に〇〇自動車を創業した。母体だったはずの当社は十年ほどで簡単に〇〇自動車に追い抜かれ、気付いた頃にはグループ企業の中でも最下層になっていた。私が入社した時には初任給も休日日数もボーナスも何もかもが〇〇グループ内で最下位だった。
 そんな当社に私が入社したのとほぼ同時期、〇〇自動車から東田参与という小柄で陽気なオジサンが転籍してきた。ちなみに参与というのは格で言うと部長の上で取締役の下くらい、自身の判断で単独で動けるが組織の人事権は無い。東田参与は〇〇自動車のデザイン部から当社のデザイン開発力強化のために送り込まれた人だと言うふれ込みだった。
 ある日、東田参与は私を会議室に呼び出して言った。

「五年後、君をヨーロッパに送り込むから今から準備しておけ!」

 え? なぜ私が

(続く)

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