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【メルヒェンの蒐集001】蛙の王さま



 河津周作は不愉快な夢から目を覚まして、身を起こすとそこはホテルの、やたらと大きいわりにひどく硬いロココ調のベッドの上だった。目の前には菱形のの植物の様な模様が並んだ壁紙と、革張りのソファー、レースのカーテンのかかった窓からからは薄暗い部屋光が差しているのが見える。明るさからして既に昼前くらいだろう。横を見やると、皺だらけの白いシーツの上に、こちらの方に向かって身体を丸めて女が眠っている。河津も女も服は着ていなかった。ベッドの下には脱ぎ散らかした服が、無造作に散らばっているのが見える。
 少し頭を掻いてから、女は放って、三好はベットから起き上がりそのままシャワーを浴びる。昨晩のことはろくろく覚えていなかった。ただひどく酒を飲んだことは間違い無くて、今でもズキズキと頭が痛む。
 しかしあの女は一体誰なんだろう。行きずりであることに間違いはなかった。まぁそれは別に大したことではない。河津には別にそんなのは珍しいことではない。ここ2、3年に関してはそう言うことはめったになかったとはいえ、もともと河津はそうなのだ。それよりもだ、問題はあの顔だった。女はどう見たって少女と言っていい年齢だった。童顔なんてものじゃない、一瞥した一瞬、その白い胸に視線を這わせたが、あの肌のハリは間違いがない。顔なんていくらでもゴマカシが効くけれど、肌はなかなかゴマかせない。どう見たって若すぎた。少なくとも、三好にはナボコフのハンバードのような趣味はない。しかしどうも、この状況ではもはやいい逃れはできそうにない。

 シャワールームから出ると、少女は裸のままでソファーに腰掛けてスマートフォンをいじっていたが、すぐに河津の方に顔をあげた。何か声をかけようとする暇もなく、
「どうしたの?」
「え?」
「血、首んとこ」
と言われて首に手を当てて見てみると、嫌に赤々した鮮血が指からカーペットに垂れた。
「や、気づかなかった」
と返して首を抑えたけれど、なんと続ければいいか、ひとまず足下に転がった下着を履いてから、少女の方に向かってベッドに腰掛けた。横の窓からの光で少女の滑らかな肌はいっそう輝き、肩にかかるくらいの髪は明るく見えた。まつ毛は長く、焦茶色の瞳が股ぐらの上に持った端末に注がれ、薄い唇は軽く開かれている。胸は小ぶりで、腰もとも引き締まり、スラリとした脚が伸びている。じっと見つめていた三好は、掛け値無しにキレイな娘だと思った。それから少女趣味じゃないとさっき思っていたことを思い出して、苦笑いした。
「すまないけど、昨晩のことはほとんど覚えていないんだ」
と申し訳なさそうに言ってみるが、少女は何でもないようで、スマートフォンに視線を下ろしたまま、
「オジサン、昨日だいぶ酔ってたもんね」
と言った。確かに一回りくらいは違うとはいえ、オジサンと来たかとかなんとか思っていると、突然顔を上げて男を見やり、手を差し出して
「お金は?」
と言うものだからギョッとして、それから内心でやっぱりかと思ったが、少女はすぐに手をだらんと下ろして
「じょーだん」
と言って笑ったから、河津も安堵して軽く笑った。
「とりあえずお腹すいたし、なんか食べに行こっか」

 ホテルのある裏路地を出てから、少し通りを歩いた。はやくも日差しが強まる季節となって、シャツが汗ばんできて不快になった。
 少女はチサトというらしい。仮にそれが本当の名前ならばだけれど。それと歳は19歳らしい。これはまぁそう言われればそうとも思えるけど、やはり少し怪しかった。だが彼女がそう言うんだからそう言うことにしておいたほうが、少なくとも自分はそう思っていたのだと言い訳ができるようにしておいた方が都合はいいだろう。そしてそのほかには自分の素性は語ろうとはしなかったのだから、それを強いて聞くことはない。河津も本名は言わずに三輪俊介と名乗った。けれどチサトは相変わらず、河津のことを「オジサン」と呼んで、わざとらしく大学の授業にあんまり出てなくて単位が危ないかもだのテニスのサークルに入ったけどもう3ヶ月近く行ってないだのといった下らないとは思うが、真実だとしたら本人としては切実なんだろう話し続けた。当然チサトは何も気がつかない。二人は通りに面している目についたカフェに入ることにした。
 ステンドグラスがはめ込まれた扉を開けると、ひんやりとした空気が吹き出してきて心地よく、ガラスを通して射したオレンジ、ブルー、グリーン、イエローの光が互いにその輪郭をぼやかしながら消して混じり合うことのない一つの塊を成していて、それが手前の厨房に沿った、常連らしい年配客の座るカウンター席の足元、奥の大学生くらいの男女とポロシャツとアロハ若い男の二人組との2組の客がいるテーブル席、通りに面した大きな窓のあるテーブル席の方を順番に照らしていった。扉につけられた鐘の音ですぐに気がついた若い女の店員が出てきて、その案内で河津たちはその窓辺の席に座った。

 とりあえずサンドイッチ2つにとホットとアイスそれぞれ1つづつコーヒーを注文して、若い女の店員が厨房に引っ込んだのをみてから、ひそひそ声で河津は切り出した。
「それで、昨晩のことなんだけど」
「そんな気にしなくていいのに」
とやはり何でもない感じでチサトは言う。それから笑って、
「でもそんなに気にすんならここは奢ってね」
と言った。河津は笑って返していいのやら困ってしまった。
「けどね、ほんとに気にしなくていいんだよ」
「だってあたしが連れ込んだんだし」
チサトは真っ直ぐに男の目を覗き込んでいる。河津は本気ととっていいのか、冗談と取るべきかやはり困惑している。店員がコーヒーを先に持ってきたから、ひとまずそれを啜ったが、その熱さに驚いた。少女はそれをみて大笑いしている。
「あたしね、昨日のことはちゃんと覚えてんの。全部だよ。お酒は飲んで無かったからね。未成年だし」
「オジサンが女の人に浮気された上にフラれたこととか、それで記憶が飛ぶまで飲んでたこととか。それから三輪俊輔は偽名で、『抱擁家族』の主人公から拝借してることとかね、カワヅさん。」
そう言う少女は相変わらず笑いながらも、まっすぐと男の瞳の奥を見据えている。どうやらこれは思った以上に何もかもお見通しのようだ。
「だからほんとに気にしないでね」

 それからまたチサトは何でもないような話を始めた。河津はそれにたまに相槌を打ったりはするものの大して反応もせずに聞いているだけだったけれど、少女はそれでも満足気だった。サンドイッチを食べ終わって、二人は店を出た。そしてそこで男は駅へ、少女は反対の方へ別れることになった。そして二度と会うこともあるまいり別れ際に少女は男に言った。
「昨日だけどさ、女の人にフラれて、ショックでお酒飲んで、道ん真ん中でわんわん泣いてたんだよ」
男はそんなことだろうとは薄々思っていたものの不意をつかれてギョッとした。
「あんまりにもみっともなくって笑っちゃいそうだったよ」
「でもね、そういうのいいと思うんだ」
それから少女は振り返ってスキップでもしそうなぐらいの気分で弾むように去っていった。その後姿を黙って見送ると男は湧き出してきた額の汗を軽く拭って、空を見上げる。

 あたしは何もかもに退屈していた。大学は実家からは電車で片道3時間、通えないってわけでもない、実際高校の友達は実家から近くの大学に通ってるけど、流石に朝早くから起きるのもしんどいし、進学を機に一人暮らしになった。推薦でもAOでも無かったから、合格発表から入学までは1ヶ月くらいしか無かったから、急いで部屋を探しに行ったけど、もういい物件はみんななくって、不動産屋さんのオジサンにいくつかピックアップしてもらったのに内見に行ったけど、条件としてはどこも似たような感じで、そのときに見た、大学から歩いて15分くらいのとこにあるレモン色の壁の安っぽい外壁の家がなんとなくポップでいいかなって思ってそこにした。そのアパートは2階建てで、あたしの部屋は207号室、各階に10部屋で、もちろん204はないから、ちょうど真ん中の部屋だった。建てられたのは30年くらい前だから90年代で、欄干には白い塗装がしてるけどところどころ錆びている外階段を登って、扉を開けるとまっすぐキッチンと一緒になった廊下で、廊下の真ん中らへんの左手にお風呂、その隣にトイレがあってその先に、廊下とあわせて6畳の縦長の空間になってる。ここが私の部屋になった。
 大学ってびっくりするぐらい、なんかのコミュニティに参加しようとしなきゃ誰とも関わらないでいれる場所だった。一応第二外国語のクラスがあるし、何人か同じ学部に高校の頃の同級生はいるけど、クラスは週一でしか顔合わせないし、高校の同級生なんて、別に仲良く無かったからわざわざあったりはしなかった。
 でも一応人付き合いくらいしなきゃだから、おんなじクラスになった大人しめで小柄なコを選んで話しかけて、一緒にサークルを見て回った。そのコ、可愛らしいコだし、あたしも自分で言っちゃアレだけど、まぁカワイイ方だと思うから、いろんなサークルの男のセンパイから声かけられて、そしたら意外とそのコ、そのコってイチイチ言ってるとまどろっこしいからナオって言っちゃうけど、ナオがわりとノリ気で、あたしもガンガン引っ張られて映画サークルとかアカペラサークルとか、SF研究会とか、まぁいろんなところに顔出してはテキトーにお菓子を食べながら微笑んで相槌して話を聞いてるふりして回ってた。そしたらナオはイチイチ大きなリアクションするし、男のセンパイの腿の上に軽く手を乗せたりしてるんだからびっくりしちゃった。ちょっとロコツすぎ。結局ナオはワイワイ系のテニサーに入って、私も付き合いで入るって言ったけど、そのあと一回も顔を出してないし、ナオともクラスで挨拶するくらいしかしてない。

 えっと、なんの話だっけ。そうそう退屈ってこと。結局あたしは文学サークルに入ったの。昔から本は好きだったし。そこでは月に一回くらいのペースで課題図書を決めて、みんなそれぞれ読んできて、どう言う話だったか、作者はどういう意図でその部分を書いたのかなんかを話してまとめる。とはいえ基本的には会室にたまってグダグダくだんない話したり、本読んだりするのがやっぱりメインかな。いろんな本を読んだ。ほんとにいろんな本を。みんなそれぞれバラバラに好きな本を持ち寄ったんだからそれはそうだろう。ホメロスの『オデュッセイア』から始まり、シェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』って言う少しマイナーな喜劇とか、チェーホフの短篇とか、フローベールの『感情教育』も。あたしのただでさえ狭い部屋は、たくさんの本に埋もれて余計に狭くなったけど、それはそれでよかった。あたしはずっと本ばかり読んでいた。
サークルの会室で3年の男のセンパイ二人と男女一人ずつ2年のセンパイ、それからあたしともう一人文学部の1年の女の子と男の子でデーブルを囲んで、奥にある安っぽいソファにどっかり汚らしい感じのロン毛で短パンの4年の男のセンパイでその日、読書会が開かれてた。見るからにマジメって感じの3年のタイチさんがみんなの前で朗読してる。
「『ねぇ、あんた』
と時子はまだうすら寒く、こたつの中に足を入れて横になりながら、やはり、少し離れて横になっている夫に話しかけた。
『何だ』
と俊介が答えると、時子の足がのびてきて彼の足の指をぎゅっとはさんだ。
『こんなことはあんたは堪えなくっちゃ駄目よ。冷静にならなくっちゃ。あんたは喜劇と思うくらいでなくっちゃ。外国の文学にくわしいんだもの』
『喜劇?なるほど、そうか』
『悲劇のように考えるのは、もう古いわよ。あんたの物の考え方はそうじゃなかった?』
俊介は考えこんだ。」
あたしはしばらくは読んでるところを目で追ってたけど、ふと顔を上げてみんなを見てみた。とはいえ後ろのソファにいる坂本さんをわざわざ振り向いてみはしなかったけどね。2年のシロウさんはパイプ椅子に半分胡座な感じで揺れてたけど、それでも真面目に字を追っている。隣のアスカさんはいつもの通り背筋がピンと伸びていて、この人はそうやって生きてきたんだって思う。あたしの隣のユキちゃんはめっちゃのめり込むみたいな姿勢で読んでいて、鼻の穴をヒクヒクさせていて、顔はカワイイってわけじゃないけど愛嬌がある。こういう、空回りするような真剣さで、いつも損しちゃうような人があたしは好きだな。その奥のタクトくんはあたしと同じであんまり集中できてないみたいで辺りをキョロキョロしてて、目があっちゃったら気まずそうに笑ってから一応本に目を向けてた。そこまでマジメではなさそうな3年のセイジさんはやっぱり本は見てなかった。それでそっちをみてみたら、彼もあたしの方を見ていて、それでいてタクトくんみたいには申し訳なさそうにはしないで、微笑みを口に浮かべてずっとこっちを見てる。別にこういう視線を受けるのは昔からだし、別に気にしない。顔立ちはとても整っている、人柄も別に悪くわない。けどあたし、あの余裕ぶった微笑みにちょっと腹が立つ。

 退屈な大教室での授業が終わって廊下に出ると、ユキちゃんとタクトくんが話しながら歩いてきていて、そのまま三人で学食でお昼になった。タクトくんはチキンステーキ、ユキちゃんとあたしはローストビーフ丼にした、ユキちゃんはお米とレタスとお肉を箸でつかんで口に入れて、最近読んだ本について少し興奮気味に話していて、それをあたしとタクトくんが時々ツッコミを入れながら聞くというのがいつものパターンだ。
「そういやさ、この前の読書会の時、セイジさんめっちゃ高崎のこと見てたよな」
と思い出したようにタクトくんが切り出した。あたしは何と答えていいか分からず困った感じで「あー…、ね?ちょっとロコツな感じでヤだったね…」とだけ返したんだけど、ユキちゃんは本のこと話してる時と同じぐらい目をらんらんとさせて、
「えー!いいじゃん!坂口センパイ、かっこいいし!レット・バトラーみたいじゃん!」
「いいよねー、私も青春したいなぁ」
とか一人で話を展開させながら、タクトくんの方にチラッと視線を送っていたが、タクトくんはあたしとユキちゃんの間のスペースのあたりを見ていてまったく気づいてない感じだった。ユキちゃんのこーいうところはちょっと困る。
「高崎はどうなん?」
ってタクトくんの方もちょっと便乗してきて、
「うーん、どうかな」
って誤魔化すしかできない。

 そのあと、3限は空いていたから、授業のある二人とは別れて、あたしは会室で4限を待つことにした。部屋に入ると「おぉ、一人?」と声がして、開けた扉の影になっている右手のソファーにセイジさんが座ってた。さっきのこともあったからあたしは、ぺこって首だけで答えてからソファーにから一番遠い窓際の席に座る。気にしないようにしてバッグの中から文庫本を取り出して読むふりをしてた。
「このあと空いてる?」
って声かけられたから無視するわけにもいかず、
「4限と5限が入ってますねー」
と答えた。わざと目は少し逸らしてたけど、彼はあたしをじっと見てる感じだった。
「オレも4限あるから、わざわざ出て来たんだけどさぁ」
「めんどいからフケてどっか行かない?」
そらきた、来ると思ってたんだ。
「単位大丈夫なんすか」
「全然ぜんぜん!オレ、何気にGPA3.5だし、単位落としたことないから」
と笑っている。興味ないからそれに微笑みで答えて、本に戻ろうとしたんだけど、うまく話はそらせなかったみたい。結局、駅前の映画館に行くことになった。昔のフランス映画のリバイバル上映だった。あたしは田舎から出てきたこともあって、そういうコウショウな作品を見る機会がなかったこともあって、全然知らない。センパイは喫茶店で、ゴダールがどうのヌーヴェルバーグがどうのと話してくれたが、ゴーダルの名前を知ってるぐらいでろくに分からない。あーあ、5限、割と好きな授業なのになとか、とっくに終了時刻を過ぎている時計を眺めながら思ってたんだ。ふと二人とも黙る瞬間があって、そのときセイジさんを見ると、頬杖をつきながらあたしの目をじっと覗き込んでいた。まつ毛が長い。
「オレさ、高崎のこといいなって思うんだ」
雰囲気で察するけど、これはやっぱりそういうかんじ。
「高崎はオレのこと嫌い?」
「嫌いってわけじゃないですけど…」
ここは嫌いって突っぱねるべきだったと言ってから思った。あたしはこういうときいつもそうだ。そういう自分がいやになる。
「じゃあさ、付き合ってみない?そしたら色々オレのことをもっと知ってもらえるしさ」
「どうかな?」
「絶対オレたちうまく行くと思うんだよね」
あたしは答えることができず、ただ笑ってるみたいだ。
「じゃあ決まりだ」
と言われてしまって、「何で勝手に決めるんすか」と笑って冗談ぽく言うんだけど
「えー、いいじゃーん」
と向こうも笑っている。その笑顔が気持ち悪い。
店を出てそそくさと
「じゃあわたし家こっちなんで」
っていって早足で帰ろうとした。そしたら腕を掴まれて、ぐわんって視界が動いた。一瞬街灯の光がゆらめいて、綺麗だと思った。あたしは急にキスされた。その瞬間、あたしは高校のころ付き合っていて、受験シーズンに何となく会わなくなって、そのまま自然消滅しちゃったケンジと、初めてしたヘタクソなキスを思い出した。あ、あたし何やってんだろって思った。セイジさんのキスはとてもスムーズで小慣れてる感じだった。あたしみたいな、その場の雰囲気に順応せずにはいられないやつは、こういう気取った男に小慣れたキスをされちゃうんだ。なんかあたしもうダメだって思った。
 あたしはすぐ掴まれた腕を振り払ってから袖口で唇を拭った。それから家の方に久しぶりってくらい全力で家の方に走ってった。決して振り向かなかったけど、後ろであいつが気取った薄ら笑いを浮かべてるのを感じた。

 そんな頃だった。バイト帰りで時間は22時を回ってとっくに真っ暗だった。国道沿いでもこの辺りは少し田舎だったからお店はもう閉まっていて、まっすぐな道に10メートルおきぐらいにある街頭の灯りと、時々通る車のライトだけが道を照らしていて、あたしはそこを小走りに家路に急いでいた。こういうことはもうしょっちゅうだった。

 そしたら突然だけど、脇を通った車のライトに照らされて、街灯の下に大きな黒い塊がウネウネと動いているのがハッキリと目に入った。びっくりした、その一方で昔こんな感じのホラー映画を見たことがあるななんて冷静な考えもあった。よくよく見てみるとそれは大人の男の人だった。それが街灯に縋り付いて嗚咽を漏らしているのだ。あたしはなんだか可哀想に見えた。うんん、もっと酷いこと、気持ち悪いなって思った。だって大の大人がこんな風に道端でみっともなく泣いてるんだもん、そりゃ誰だってそう思うでしょ。
 あたしはゆっくりと男の人のほうに向かって歩いて行った。それでそのまま通り過ぎようかとも思ったけど、あんまりみっともないもんだから、一応声をかけてみた。
「だいじょぶですか?」
するとその男の人は嗚咽を漏らしながら、ゆっくりと恨みがましいような顔でこっちを見上げてきた。その顔をみてなんだか大笑いしちゃいそうになったの。けどそれを必死に抑えて、とっても心配そうな顔をして見つめてみた。そのオジサン、って言ったらちょっと可哀想かな。多分30歳過ぎくらいだもん。で、そのオジサンはどうやらお酒をいっぱい飲んでこうなっちゃったらしい。顔がとっても真っ赤だったし、しんどそう。あたしも出来るだけ目線が同じになるようにしゃがみ込んで、どうしたのって優しく聞いてみた。すると、そのオジサンはカワヅっていうらしい。すぐに頭の中で蛙って変換して、変な苗字だなと思いながらオジサン話を聞いていた。オジサンはどうやら3年くらい付き合っていて、結婚を考えていた人にフラれちゃったらしい。あたしは笑いを堪える。それでそれまではその女の人がすごくオジサンのことを好きだと言っていて、それで自分はもちろんその人のことを愛してはいるけど、そこまで熱はないと思っていた、でもいざ突然フラれると、本当に辛くて、それでお酒をたくさん飲んじゃったらしい。本当に下らないなぁ、醜いなぁってあたし思ったの、ちょっと酷すぎるとはあたし自身も思うんだ。
 でもさ、でもだよ、たまたま道端で出会ったその醜い黒い塊みたいなオジサンが、妙にね、愛おしく思えちゃったんだ。ヘンだよね。なんかそのオジサンはくだんない事で、醜く泣いてるんだけど、この醜い黒い塊がさ、あぁ、これが本当の人間なんだって気がしたんだ。それでさ、今そんな醜い人間であるオジサンを助けてあげられるのは、あたしだけなんだとも思ったわけ。もちろんケイサツを呼んであげれば、それはそれで解決するんだけど、そんなヤボなことはそのときは思いつかなかった。どう考えても変な状況だよね。ベロベロで泣き上戸のオジサンと女子大生が、深夜に街灯の灯りの下で語り合ってる、それだけでもなんだかとっても面白かった。あたしは「とりあえずここにいてもしょうがないから、肩かすから立って」って言って、そしたらオジサンも素直に立ちあがろうとした。

 もっとヘンなこと。そこであたしはオジサンの、醜い唇にキスをした、思いっきり。歯がガチッってぶつかって、結構痛かったし、それにオジサンの口はお酒臭かった。けどそんなことは気にせずむさぼった。その時にね、なんだかあたしも人間なんだって思えて、救われた気がしたんだ。ほんとヘンな感じ。でもとっても嬉しかったんだよね、あたし。

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