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道徳は今日なお可能なのか?【何スゴ:カント『実践理性批判』】

はじめに:道徳は今日なお可能か?

 今日、道徳は非常に旗色が悪い。道徳と聞くと、退屈なお説教が思い浮かぶことでしょう。これからそれを真面目に論じようと言おうものならば、失笑されても仕方がない。しかし私はあえてそれを真剣に問おうと思います。

 こうした道徳の凋落の理論的基礎づけとなる最も有力な思想家はニーチェだと言って差し支えないでしょう。ニーチェは『道徳の系譜』の中で、歴史を遡ってキリスト教道徳の成立の起源を論じます。簡単にまとめると、自分のよしあしの感覚で行動する貴族的な強者に嫉妬(ルサンチマン)を抱いた弱者が、強者の在り方を悪として、そうでない自分たちを遡求的に善であるとしたという利己的な恨みに満ちた規則が道徳の始まりだというのです。つまり道徳とはそれまで神聖にして公正と思われていた道徳とは、私怨に満ちた根拠のないものだったというのです。

 ニーチェが論じたキリスト教会と並んで、道徳を基礎づけたのはカントであった。ニーチェがカントを「ケーニヒスベルクの偉大な支那人」(『道徳の系譜』)からも、カントの道徳論に対するニーチェの評価が窺われることでしょう。

 こうしたニーチェの道徳批判から、現代では道徳がなんの根拠もない単なる眉唾物であるとされ、もはや省みられなくなりました。しかし本当に道徳はもう無用の長物なのでしょうか。人々がしがらみなく自由に振る舞えるようになったと言えば聞こえがいいですが、それがむしろ他者を抑圧する手前勝手な論理の跳梁跋扈を許してしまっているの感があります。今日でも道徳は可能か、それをもう一度問い直すべき地点にわれわれは立たされているのではないでしょうか?

 本稿はカントの道徳の基礎づけとしての議論である『実践理性批判』を読み解いてきながら、従来の他者から押し付けられる窮屈なイメージとは異なる、積極的な道徳概念を提示できればと思います。

道徳の基礎づけとしての自由論

 カントは道徳を論じるにあたって、自由についての議論から論じます。ここにはもちろん理由がないわけはありません。ごく簡便にいうならば、道徳のためには自由がなくてはならないのです。どういうことでしょうか。もし自由がなく、人々が機械仕掛けに定められた行動をするにすぎないのであれば、その行動が不道徳だと言っても、それ以外の在り方は不可能なのですからナンセンスです。ある行為が道徳的で、もう一方が不道徳だと言って意味があるのは、その2つのうちから一方を選択する行為者の自由がなくてはならないのです。

 しかし、自由とはそもそもいったいなんなのでしょうか。カントはそれを突き詰めて考えます。我々が「自由」と言ったときに思い浮かべているもの、それはJ.S.ミルが論じたようなものではないでしょうか。引用してみましょう。

自由の名に値する唯一の自由は、われわれが他人の幸福を奪い取ろうとせず、また幸福を得ようとする他者の努力を阻害しようとしないかぎり、われわれは自分の幸福を自分自身の方法において追求する自由である。

J.S.ミル『自由論』

ミルにとって自由を他者を阻害せずに、そしてそれは同時に誰にも阻害されずに、自分の幸福のための行為を選択することができるということを意味します。ここでの要点は、他者から阻害されずにという点です。これは『自由論』で社会関係の中での自由を論じ、政府からの干渉などに警鐘を鳴らしていることからもよくわかります。このような意味ないように、私たちの多くは納得することかと思います。

 しかしながら、「他者から阻害されずに」ということは本当に可能なのでしょうか?われわれは何かを選択するとき、例え自分で明確に意識していなくても、他者や環境から影響されて選択しています。

 私は私の行為する時点において、決して自由ではないのである。それどころかたとえ私が自分の現実的存在の全体は、なんらかの外来の原因(神のような)に全くかかわりがないと思いなしたところで、従ってまた私の原因性の根拠規定はおろか私の全存在の根拠規定すら、私のそとにあるのではないと考えてみたところで、そのようなことは自然必然性を転じて自由とするわけにはいかないだろう。私はいかなる時点においても、依然として〔自然〕必然性に支配され、自由にならないものによって、行為を規定されているからである。それにまた私は、すでに予定されている〔自然必然的な〕秩序に従って出来事の無限の系列ーすなわち<a parte priori(その前にあるものから)>つぎつぎに連続する系列をひたすら追っていくだけで、私自身が或る時点にみずから出来事を始めるというわけにはいかないのである。要するに一切の出来事のこういう無際限な系列は、自然における不断の連鎖であり、従ってまた私の原因性は決して自由ではないのである。

カント『純粋理性批判』

このようにカントはパトローギッシュな(感性的動因に触発された)選択は自由と呼べないのだから、自由など存在しないという命題が立てられると主張しました。
 しかしながらこれは事態の一面に過ぎません。もし自由というものをまったく想定しないとしたら、われわれの世界の始まりをまったく説明することができなくなってしまうからである。そうであるならば自由は存在しないという命題と、自由は存在するという命題が両立することになってしまう。これがいわゆる純粋理性のアンチノミー(二律背反)です。
 カントはこの問題をどう解決したのか、端的に言ってしまえばわれわれが通常物事を認識する思弁的理性使用においては、物事はすべからく因果律に従うわけだが、われわれの認識の元とはなるものの決してそれ自体を対象化できない物自体の領域に自由の原因性があるとしました。なんだか無理矢理な解決なように思われるかもしれないが、これはコペルニクス的転回をとげたカントの認識論、つまりわれわれが認識しているものは現実そのものではなくわれわれの観念であり、われわれの外部にあるもの自体は決して認識できず、それをわれわれの悟性が分類することで認識できるようになるという議論の必然的な帰結なのです。

 こうしてなんとか、自由の可能性を物自体の領域に確保したわけですが、『実践理性批判』ではさらにこの点を突っ込んで論じます。つまり如何なる選択が真に自由と呼べるのかということです。当然パトローギッシュな、例えばこうすると気持ちいいからするというような選択は自由と呼ぶことは決してできません。例え結果としてそれが自分人って心地よいという状況を生み出すことになったとしても、そうした自分の快・不快とはまったく関係なく、無条件に絶対的な「こうしなくてはいけない」という格率に従って自分が選択することこそ、真の意味で自分自身の選択の自由と呼ぶことができるとカントはいうのです。

格率の根源としての意志の本質

 もうすこしこの自由並びに格率というものについて詳しくみていきましょう。
 いったい、カントの言う意味での自由は本当に可能なのでしょうか。柄谷行人は『倫理21』のなかでカントの自由論を、自然必然性を括弧にいれて、自分が自由な存在であることを意志するというニーチェの運命愛的なものとして解釈しています。これはこれで独創的で面白い解釈ですが、やはり厳密とは言えません。なぜならば物自体の世界を捨象してしまっているからです(確かにそれならカントはニーチェ的な思想として理解できるでしょう)。ですが本当に重要なのは物自体と現象の区別なのです。

 真の自由が可能であるかを論じるために、カントはまず人間の格率(欲求)を2つのパターンに大別します。それが仮言命法と定言命法です。ではそれぞれがどういうものかを見ていきましょう。
 仮言命法とは「もし○○ならば、××すべし」というものです。これは端的に欲望のメカニズムと言い換えて良いでしょう。俗な例を挙げるとすると「もしモテたいならば、異性には優しくすべし」というようなものです。これはいうまでもなくパトローギッシュなものであり、広く言えば自分の幸福や快楽のためにはこうしたほうがいいという類のものです。こうした格率に基づく行為は例え「もし〇〇ならば」の部分が明確に意識されていなくても、自然必然性に従ったパトローギッシュなものであり、決して自由と呼ぶことができないのです。

 カントはこうした欲望のメカニズムである仮言命法とは別に、もう一つの人間の格率があるといいます。それが定言命法です。
 定言命法とは単に「〇〇すべし」というものです。そこにはなんの根拠も、理由もありません。ただ私に迫ってくる内的な強迫であり、命令です。命令とは言っても、決して組織や共同体から強制される類のものではないということは強調しておかなければならなりません。例を挙げてみましょう。あなたは川沿いの道を歩いていると、子供が川を溺れていることに気がつきました。あなたはまず何を思うでしょうか。おそらくまずはじめに思うのは、「少年を助けなければならない」という思いが湧いてくることでしょう。その後「川に飛び込んだら服が濡れる」とか「商談に間に合わなくなる」とか、「自分が助けなくても誰かが助けるだろう」とか、さらにいうと「助けようとして自分が溺れてしまうかもしれない」と考えるだろう。あるいは「ここで助けに行けば周囲に賞賛される」と考えるかもしれない。後から浮かんできた考えはどれもパトローギッシュなものだ。それらの考えのもと「助けなければならない」あるいは「助ける必要はない」と考えて行動しても、それは自由とは言えない。しかしはじめのだけは違う。「少年を助けなければならない」という格率はなんらの自然必然性に縛られることなく、それだけが行動の原因性となっているのです。これらはルソーの「憐れみ」やレヴィナスの「香」同様、私たちにただ理由もなく義務が迫ります。私たちはこの強迫に従って、少年を助けざるを得ない、急き立てられる感覚を覚えるでしょう。もちろん後から出てきたパトローギッシュな考えに基づいて、この義務に背くことも不可能ではありません。しかしそうすると自責の念を覚えることでしょう。ただ自由があるとするならば、この自然必然性とはなんの関係もない内的な強迫に、義務に従うことこそ真に自由と呼ぶことができるのです。

如何なる格率が普遍的法則と一致するのか

 このように定言命法による格率の内的義務に従って行為することで自由の余地を確保することができました。それは同時に、道徳の余地も生まれたということになります。しかし勘違いしてはならないことは、内的義務に従うという自由があるからと言ってそれは、必ずしも自由に行為することが道徳的ではないということです。内的義務は決して必ずしも普遍的な義務と呼ぶことができず、あくまで個人的なものでしかないのです。

 ここで再度確認しなくてはならないことは、やはり『実践理性批判』でも人間の内的な観念である現象と人間の認識し得ない物自体とを厳格に区別しているということです。格率とはあくまで個人的なものです。だからこそカントは言っています。

 君の意思の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。

カント『実践理性批判』

これは明らかにカントが意思の格率と普遍的立法が別のものであると考えているということを示している。そして普遍的立法に格率を近づけていくことが重要だと言っているのです。

 普遍的立法としての神聖性を帯びた道徳法則は物自体に属する。現象界に属する私たちは、自分たちの格率を道徳と一致させようとする。ここには驚くべき跳躍が必要となります。カントは次のように述べます。

 この世界において最高善を実現することは、道徳的法則によって規定され得る意思の必然的対象である。このような意志においては、心意が道徳的法則に完全に一致することをもって、最高善の最上の条件としている。それだからこの一致は、心意が目的とするところの最高善とまったく同様に可能でなければならない。心意と道徳的法則との完全な一致は、最高善という目的の実現を促進せよという同じ命令のなかに含まれているからである。ところで意志が道徳的法則に完全に一致することは神聖性と呼ばれる。それだから神聖性は、感性界に属する理性的存在者としては、彼の現実的存在のいかなる時点においても〔すなわち彼の生涯においては、ついに〕達成しえないような完全性である、それにも拘らず意志と道徳的法則との完全な一致が実践的に必然的として要求されるとすれば、それは完全な一致を目指す無限への信仰のうちにのみ見出され得ることになる。そこでかかる実践的進行を、我々の意志の実在的対象として想定することが、純粋実践理性の原理に従って必然的となるのである。

カント『実践理性批判』

どういうことでしょう。神聖な道徳は物自体に属するのですから、有限な我々の意志の格率をそれに一致させようとするならば果てしない無限の時間が必要になります。これで完璧というような道徳性の完結を見るということは考えられないのです。ただ完全な一致を夢見ながら、絶えず私的な利害を廃した普遍的な格率となるように自分を求め続けることこそが重要となるのです。

 こうした未完結な道徳を追求し続ける、この時決して道徳は人々に覆い被さる教条とは成り果てることはありません。私たちの一人ひとりが、万人に妥当する普遍的な道徳に一致しているかを検討し続けること。これこそは今日の我々に必要とされる道徳への態度なのではないでしょうか。カントはこうした生き方をこそ我々に訴えかけているのです。

さいごに:永遠への意志

 道徳とは今日も可能なのでしょうか?他罰的な教条としての有効性はニーチェが打ち砕いてくれました。しかし本来道徳とは内的なものだったはずです。内的に自己を反省して、より普遍的なものを目指すものとしての道徳として今日なおカントの議論は有効です。

 道徳が打ち捨てられて以来、正しさなんてない、なんでもありを肯定するような議論がなされることもしばしば目につきます。

 そして一方で組織や共同体のレベルでの安易な道徳論や義務論に無批判に押し流されてしまうようなケースも少なくないようにも感じます。

 我々はもう一度厳密な公的な道徳として自分を陶冶し、真に普遍的な道徳はないのかを検討する意味でもカントを読むことの意義があるのではないでしょうか?

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