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【メルヒェンの蒐集002】こわがることを覚えるために旅にでた若者


 君はいま、窓枠の縁に頬杖を付きながら、夕暮れに染まった一面のだだっ広、本当にだだっ広い、刈り入れの終わった田圃の中を、格子状のに突っ切る一車線道路を走るスクールバスにゆられながら、ガラスに映る君の顔越しに見える富士山をじぃと見ているのだけれど、奇妙なまでに、そのバスの描く軌道と平行になって、その上空30,000ftを飛行機が飛んでいるから、その米粒よりもずっと小さなバスは飛行機からは見えなかった。いや、それは大きさの問題ではないのであって、角度の問題だ。それに仮にバスが走るのが、平行に、真下でなくたって、誰がそんなことを気にするのか、乗客は羽田空港を離陸して、数分の乱気流を、東京湾を大きく旋回しながら抜けて、それから数十分で、まだ眠るわけではないけれど、CAの運んできた紙コップにコーヒーを順番に注いでもらって、あるいはイヤホンをしながら目を瞑って、あるいは遠くに見える富士山を廊下側の席からなんとか覗き込もうとしているけれど、君からもまた上空30,000ftの飛行機は見えなかった。
 スクールバスは毎日その道を行ったり聞いたりしている、とはいえ行に2本で帰りは6本くらいだ。それだと、やっぱり到着の遅れや整備の遅れや、あるいは天候の理由で時間がズレることはあるが、だいたいその飛行機は毎日その辺りを飛んでいる。だが、その飛行機とバスが全く同じタイミングで、わずか30,000ftの距離を隔てて、全く同じ航路を平行にたどることなどあるのだろうか!これはほとんど考えられないことだが、それは現にいま起こっているのだ!それも、互いに意識せずに。君は耳を澄ませはかすかに聞こえるであろう上空30,000ftの飛行機にすこしも意識を傾けずに、富士をただぼんやりと眺めている。

 しかしいったいなぜ彼はそこまで必死になって富士を覗こうとしていたのだろうか。彼自身、普段から家から富士を見ることはできないのは山がちな土地柄、たいして高くもない近くの山に阻まれて見えないだけであって、車で1時間ほどの山越をすればいつでもすぐにその白い雪に覆われた山肌を見ることができたのだから、なにも珍しいことはない。とはいえやはり普段は見えないのであって、もちろん富士を見るためというわけではないが、山を越えるたび、ハンドルを握る母「今日ははっきりと見えるね」とその度に物珍しそうにいうものだから、それを例の如く窓枠の縁に頬杖ぞつきながらぼんやりとながめるのだった。そんな彼が、今は窓際の座席の女性に不審な目で見られるほどに、必死になって体を捩らせながら、喰らいつかんばかりに富士を見ようとしているのだ!

 彼が富士にたいして戦慄を覚えたのは大学生の時分だった。その冬の日に彼は、大学の近くに借りた賃貸から出て川沿いの道を駅に向かって歩いていた。空気はとても澄んでいる。すでに日は傾いていて、わずかに草の茂った川面が夕映にちらちらと輝いていた。鳥が飛び立った。名前はわからない。高校の同級生に鳥が好きで、よく山にはいって巣を持ってくる友人がいて、これまた名前のわからない鳥のふわふわした巣を触らせてもらったことがあるが、その彼ならきっとその名がすぐにわかるのだろうと思いながら小さくなっていく黒点を目で追っていた。
 この時である。彼は愕然とした。冬の空気の澄んだ日だからだろう、それともこれまで意識もしていなかったからだろうか、そこには物言わず黒々と聳える富士の影があったのだ!
 ここからはゆうに100kmは離れている。それだのに富士は、ありありと不動にそこにあるのだ。彼は高校を卒業して地元を離れて以来、富士のことを考えることはそれまでなかった。しかし富士は、彼の思考や認識能力とは関係なく、いや、それらを超えてただそこにあり続けた。このことこそ、彼を愕然とさせるのだ。

 それ以来である。彼は執拗に富士のことを考えるようになった。女性が一人、電車に乗ってくる。女は彼の隣の席を一つ開けて隣の座席に座る。彼は窓に反射する彼女の顔をじっと覗き込んだ。彼女は退屈そうに手元のスマートフォンにじっと視線を落としている。やや垂れ下がった前髪越しに見る彼女の顔はとても整っているように見える。そんな彼女のうっすらとした像越しの車窓、ずっと退屈な特徴のない住宅街の風景を写し続けているのが見える。ふと、彼女は視線をあげる、窓の反映を通して、僕らの目が合うが、わざとらしく目を逸らすようなことはしないで、あくまでもその奥の風景を退屈に眺めているように振舞った。

 パリの街にエッフェル塔ができた時、あの剥き出しの鉄骨が嫌いだったモーパッサンは、しばしばエッフェル塔のレストランで昼食をとったという。曰く、「パリで塔が見えないのはこの場所だけだ」という。彼にとって問題は私よりは単純だったらしい。

 ホルバインの「大使たち」という絵がある。一見すると二人の男性を描いた単なる肖像にしか見えない。しかし一度露骨に隠されたヴァニタスのアレゴリーに気がついた時、もはやそれ以前の素朴な認識に戻ることはできない。

 彼は実家に帰って、例の山越の道を車で走っている時、母に八王子からも富士が見えると言った。母は微笑んで、富士山にずっと見守られているってことだねと言った。

 彼は逃れたかった。富士から見られることのない土地ならばどこでもよかった。羽田発、福岡行きの便は10分のディレイで、早めにラウンジにいって煙草を吸って搭乗口ゲート前に戻ってくるともう20分ディレイするらしい。搭乗する飛行機の到着が遅れたらしい。すでに周囲の登場スポットには航空機が並んでおり、貨物の積み込みや給油などの準備を進めている。そのずっと奥には、やはり富士が見えた。
 航空機に乗り込む。しばらく地上を走行し、所定の滑走路前に待機する。地上をスピードを上げながら滑走し、東京湾を大きく旋回しながら、ぐんぐん多く高度を上げていく。機体は思ったよりも揺れて彼はびくびくしたが、地上はどんどん遠ざかっていく。安定高度に入ってからは揺れもなく、シートベルトのサインが消えた。CAさんが後ろの方から飲み物を乗客に配り始めている。目の前のモニターでは飛行機はいま相模湾の上空を飛んでいるらしい。窓からは遠く海の向こう側に地上が見える。今私はとうとう富士から逃れることができるのだ!勝ち誇ったような気分だった。こんなに簡単なことだったのだ。ある種の恍惚の表情を浮かべながら彼は、座席に背をもたれさせた。

 その時だった。ふと窓際の座席に座る女性が窓を指差す腕の動きが視界の端に映って、そちらに視線を向けた。彼は再び愕然とした。小さな窓の先に、遙かに富士が見えたのだ。彼は、私は身を乗り出して、身を乗り出して釘付けになった。窓際の女が驚いてこちらに振りかえるのも気にせず。君は眼を見開いた。そこには夕映に金色に輝く富士があるのだ!私は甘かった。問題は私の認識ではないのだった。私が富士からどれほど遠くに離れようとも、富士は確然としてそこにあり続ける。それこそが問題だった。富士は逃れさった気である私を見ながら薄気味の悪い微笑みを浮かべている。富士がフレームの外から外れた後もその微笑みはガラスにくっきりと残っていた。

 そんなことも知らずに、真っ直ぐに描かれた飛行機雲の下を、それと平行の軌道を描く田舎道を走るスクールばすの窓際の座席で頬杖をつく君は、ただぼんやりと富士を眺めている。

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